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真鍋太一さん 連載 “小さな食料政策” 進行中。
第8回 「食べるを真ん中に、一歩前に進む」

People / Life InnovatorMay. 29, 2020

資本主義の味:Taste of Capitalism

「食べる」ということを、社会の真ん中にもどせばだいたいの問題は解決できるのではないかと前に書いた。

人は食うために働いてきたはずだ。

しかし本当の“飢えを”知らない私たちの世代は、どうやら働くために食べるようになったらしい(栄養補給)。

最近、若いスポーツ選手を起用したコーンフレークのCMをよくみる。

オリンピックなどを契機にこういった食べ物のような「もの」が世界の隅々まで広められるのが本当になげかわしいが、現代社会ではできあいの朝ごはんやコンビニの弁当をかっ喰らい、可能なかぎり食べる時間を短くし、ひたすら働いている。料理に時間をついやすなんてもってのほかだ。

この手の食べ物のようなものは、ゆきすぎた「資本主義の味」がする。

極端なグローバリズムによって極限まで均一化され、世界中どこでも同じ味が楽しめる。更にその食べ物のようなものは、いろいろな添加物をつかい脳にダイレクトにどけられる刺激によって快楽を与える。ゼロカロリーもお安いごようだ。

また、星付きレストランの有名シェフが、新しい味・新しい調理法(発酵ブーム)を駆使し食材をいじくりたおす。味覚の拡張などと言わしめる一食数万円の料理も、今の社会を象徴する味ではないかと想像する。

それらは経済を優先する社会においては「合理的」な味とも言えるのだろうか。

そして人はそれらをくりかえし、くりかえし食べつづけることで人生すらも生産財または消費財のどちらかにおき変えていく。経済合理性の追求には、人にとっての不合理が常に内包されている。

しかし人との接触を八割減らし移動を極端に制限する中で、
今、人は人間らしさを取りもどしつつあるようだ。


味の種別



『自分の仕事をつくる』の著者の西村佳哲さんが町を支える基盤として「貨幣資本・社会資本・自然資本」の3つの資本があると言いていた。今の時代は、経済的な合理性(貨幣資本)を優先しすぎていて人間性(社会資本・自然資本)が軽視されすぎている。これからは貨幣資本に依存しすぎることなく社会資本と自然資本との“循環”を意識していくことが大事というような話だった。



先に述べた「資本主義の味」というものが3つの味で構成されていると考えてみたい。

貨幣資本は、“経済を優先する社会”においての「合理の味」
社会資本は、人と人との“つながり”から生まれる「関係の味」
自然資本は、自然の“恵み”をシンプルにいただく「自然の味」

なんとなく、それぞれがどんな味なのか思い浮かべてもらいたい。



日本でも大きなムーブメントとなりつつあるSDGsは、持続可能な社会を実現するための取り組みであるが、つまるところ経済を優先する「合理の味」にかたよった世界を、いかに「関係の味」や「自然の味」で人間味がある方にバランスを取っていくのかの話とも言えないだろうか。



またコロナ禍の非日常生活では、食材を自分で調達し、家で料理する機会が増え「働くが真ん中」にあった時に忘れていた関係の味と自然の味の記憶が呼び覚まされ、人間性を取りもどしつつあるのではないか。そして外食よりも自分でつくったほうが安価で合理的と気づいた人も増えているはずだ。よって家でつくる料理は、とてもバランスが取れた味ということになる。

私たちの食堂『かま屋』は、コロナ以前から「関係の味」と「自然の味」をとても重視してきた。しかしながら合理の味をおろそかにするあまり奉仕活動化し、収益性に乏しく、存続が危ぶまれているのが興味深くも笑えない事実だ。

よって経済的に成り立つという合理性はもちろん重要な話で、それぞれのバランスがとれた循環が大切であることをここで身を持って強調しておきたい。


ことばは社会そのもの


今、「新しい生活様式」など様々な言葉が乱暴に世の中に投げかけられるこの状況に違和感をいだいているのは私だけではないはずだ。

そんな中「ことばは社会そのもの」という言葉を思い出した。

前WIRED 編集長の若林恵さんの著書『さよなら未来』のなかに「ことばは社会そのもの」という章がある。哲学者の鶴見俊輔さんの『文章心得帖』(ちくま学芸文庫)という本の一部を引用しつつ彼はこう書いている。

なるほどと思うのは、ことばというものを通して、社会がわれわれのなかに入りこんできて、それが内面化された対話を生み出すというところだ。つまり、ぼくらはことばという道具をつかって、あらかじめ設定された「社会」という「外側」(=読む主体)とやりとりしているのではなく、ことばを使うという行為によって、自分のなかに「社会」を呼び込むことをしてる。言うなれば、ことばのなかに「社会」というものが含まれていて、ことばと向き合うことは、そのまま社会と向き合うことでもある、というわけだ(少なくともぼくはそういうふうに理解した)。

自分がこうやって文章を書いているとき、ことばというものを通して自分の中に入ってきた「社会」と対話しているのだ、といわれるとたしかにそうかもという気がする。特定の個人や、あらかじめ外在化された「社会」と対話するのではなく、「ことば」と対話することで自分のなかに「社会」が立ち上がってきて、それと対話する。

現在の食を中心とした活動は、“Food is Politics” 「食は政治」というビジネスパートナーのジェローム・ワーグ(Chez Panisse の元シェフ)のことばに大きな影響をうけている。そしてその「食は政治」ということばと対話しつづけることで、自分の中に入りこんできた「社会」に私は取りつかれてしまったとも言える。

今の状況下で「アフターコロナ」や「ウィズコロナ」、「ニューノーマル」などの新たなことばを社会に乱暴に投げかけ、世の中を"変えたい”と躍起になっている人たちがたくさんいる。現在の不安定な社会に浮遊しているそんな「ことば」をなんとか身体に取り込まないようにと必死に拒み、疲れ切っている人も多いのではと感じる。少なくとも私はそうだ。

厚生労働省が発表した「新しい生活様式」みたいな言葉が特にたちが悪い。
気になるのがもちろん“食事”のところだ。

「出前やデリバリーの利用・対面ではなく横並びで食べる・料理に集中、おしゃべりを控える」などを推奨する前に、その新たな様式に「地元産の季節の野菜を買う」ことや「家庭で料理を楽しむ」くらいのことを入れられないのかと思う。

国民の明日の生活が脅かされている最中、政治家たちの一般市民の生活に対する想像力のなさがこの「新しい生活様式」みたいな言葉を生み出していると思う。

政府が一方的に私たちの暮らしを制限するようなことばを世の中に投げかけることで(もちろん国民の安全を考えてのことだが)、社会全体がその想像力に欠けた「ことば」そのものになってしまうことを危惧している。なぜなら生活様式というものは、仕事や暮らしの中でそれぞれが考え、選択し、経験として積み重ねて行く文化そのものだからだ。


食べものは社会そのもの


“You are what you eat” (あなたは食べたものそのもの)ということを海外ではよく言う。

グローバル化が進んだ飽食(崩食)の時代、食べものの選択肢は無限に感じてしまう。ゆきすぎた資本主義の中で「合理の味」がする食べものを、栄養補給や快楽のために食べる。また地産地食のようにその土地で育ったものを、その土地で料理して「関係の味」や「自然の味」として味わうこともできる。現実的には、日常生活の中でそれらの味をくり返し、選択しながら生きていることになる。

ことばと同じく「食べものは社会そのもの」だとするならば、食べ物にも「社会」というものが含まれていてそれが自分の身体の中に一緒に入りこんでくる。そして内なる対話のかわりに咀嚼・分解・吸収をへて、あなたそのものになっていく。

実現したいのは、食べるを真ん中に、それぞれの土地で育まれた風土や食文化を身体に取りこみ、その土地への愛着とともに私たちそのものになっていくような人間性を大切にする社会だ。


三歩進んで、二歩下がる。


世界的なパンデミックを経験し、「もう、もとには戻れない!」という話をそこここで聞くが、またこの状況が収束すれば以前の経済合理性を追求した生活にもどっていくのだろうと悲壮感をもって見ている。東日本大震災の後がそうであったように。

でもあの時も、今回も「三歩進んで、二歩下がる」ことができる我ら人類は、少なくとも一歩は前進できるのではという希望はある(「変化」とはそういうものだと若林さんが言っていた)。

今回特筆すべきは、この分断された状況を
とてつもなく多くの人が同時に経験しているということだ。

働くことと、住まうことが否が応にも一体となってしまったこの状況。職住分離から職住一体の暮らしで、ワークライフバランスなんかあったもんじゃない。が、一方で「働くが真ん中」から「食べるが真ん中」の暮らしになった人が多くいるということでもある。

これがすべての人にとって都合がいい話ではないことは分かっているが、働き方と暮らし方を分離させた生活から、ふたつの境界線があいまいになった「営み方」の大切さに多くの人が気づけたのではないか。

西村さんが「営む」という言葉は、仕事も暮らしも、両方ふくまれる良い言葉だと言っていた。80年代は「遊び方」の時代で、その後に「働き方」の時代がきて、今は「営み方」の時代になりつつあると前にインタビュー(2016年6月)で話してくれた。

「営み方」の時代は、経済合理性による不合理によって人や自然が搾取されるのではなく、しなやかな合理が自然や社会のために存在しているのではないか。

都市か田舎、テクノロジーか手仕事、AIか人類、デストピアかユートピアの極端な二項対立の世界ではなく、働くことの意味、地域や個人のアイデンティティ、自然や他者とともにある暮らしを、食べるを真ん中にそれぞれがつくりあげていける未来の訪れを意味している。

でもそれは、私たちが勇気をもって一歩でも前に、踏みとどまれればの話だ。







真鍋 太一(まなべ・たいち)
1977年生まれ。愛媛県出身。アメリカの大学でデザインを学び、日本の広告業界で8年働く。空間デザイン&イベント会社JTQを経て、WEB制作の株式会社モノサスに籍を置きつつ、グーグルやウェルカムのマーケティングに関わる。2014年、徳島県神山町に移住。モノサスのデザイン係とフードハブ・プロジェクトの支配人、神田のレストラン the Blind Donkey の支配人を兼務。
http://foodhub.co.jp/











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