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PEOPLE / 寄稿者連載

覚悟するということ~「KUSUDA WINES」楠田浩之さん

藤丸智史さん連載「食の人々が教えてくれたこと」第5回 

2016.06.13

KUSUDA WINESとの出会い。

私には一生かかっても追い付けない二つの大きな背中がある。それは自分の父親とKUSUDA WINES楠田さんである。
KUSUDA WINESはニュージーランドのワイン産地、マーティンボロに畑を構える世界でも有名なワイナリーだ。日本人が海外でワイン造りをすると、主なマーケットは日本になることが多いのだけれど、KUSUDA WINESは、世界有数のワイン商であるBBR社が取り扱うなど、日本以外での評価も非常に高く、世界でも手に入れるのが困難なワインとなっている。

連載:藤丸智史さん連載





そんな楠田さんとの出会いは11年前まで遡る。
当時、私はシドニーのレストランで働いていた。元々、オーストラリアにはワイナリーで働くために渡ったのだが、ちょっとした(!?)アクシデントでその話が突然なくなり、悶々とした日々を送っていたのだった。このままじゃ海外に出てきた意味がないと、次の修業先を探している時、とあるワインの専門誌で日本人がニュージーランドでワインを造っていることを知り、シドニーでの購入先を問い合わせたのがKUSUDA WINESだった。
そのオーナーワインメーカーである楠田さんからの返信メールによると、なんと偶然にも私が通っていたワインショップがオーストラリアでの輸入元であり、よくよく見るとショップの片隅にKUSUDA ピノ・ノワール2002が割と手荒に置かれていたのだった。

ボロアパートで飲んだ人生最高のワイン





私自身、あまりワインに偏見は持っていない方だと思う。それであっても、当時、ピノ・ノワールだけはブルゴーニュ以外のもので、それほど感動することはなかった。なので、楠田さんがピノ・ノワールを造っていると聞いた時も、実はそれほど期待してはなかった。

衝撃だった。本当に衝撃だった。

ブルゴーニュとかピノ・ノワールとか、そういう問題じゃなく、世の中にこんな液体が存在するのか? その妖艶な香り、飲み心地、深み、味わい。鳥肌が立ち、涙腺がゆるんだことは今でも鮮明に覚えている。あのボロアパートで、コップで飲んだKUSUDAは今でも私にとって人生最高のワインである。
そして、ワインを飲み干すや否や楠田さんに感動したことをメールで伝え、KUSUDAをもう1本買うためにワインショップに走った。レストランの仲間にも飲んでもらおうと思ったのだ。ただ、面白かったのが、同僚のオーストラリア人ソムリエに飲ませたところ、「日本人がこんなワインを造れるわけがない。KUSUDAはきっとマオリ(ニュージーランドの原住民)の名前だ」と、何のプライドかわからないけれど、そんな混乱すら起こしてしまうほどのワインだった。

「こんな素晴らしいワインを造るニュージーランドに行こう」。 それはとても自然な流れだった。まだ少しオーストラリアのビザは残っていたけれど、次の渡航の資金を貯めるために帰国。その間も楠田さんとはメールでのやり取りが続いていたのだが、楠田さんからの年賀メールに飛び上がるほど嬉しい内容が書かれていた。「もし、良ければ今年の仕込みはうちに来ませんか?」と。
当時、KUSUDA WINESはまだ立ち上がったばかりで人を雇うほど量もなく、私自身は「働かせてほしい」と腹から声が漏れそうなほど思っていたが、口にすることができないでいた。しかも、メールでしかやり取りがなく、顔を合わせたこともない人間なのに「住み込みで働かせてほしい」などとは口が裂けても言えなかった。そんな中での誘いを断るわけもなく、もちろん二つ返事で「行かせてください!」と答えた。

「ワインを造らない」という判断。





こうして私のニュージーランドでのワイナリー修業が始まることになったのだが、実はこの私が手伝う予定だった2005年、とんでもないことが起きるのだった。
KUSUDAでの研修が始まるまでに、ニュージーランド最大のワイン産地マールボロで収穫の仕事をしていたのだが、聞こえてくるのはワインメーカーの悲鳴ばかり。そう、かなり天候が良くないヴィンテージだったのである。特にKUSUDAのあるマーティンボロから、1カ月分の雨が1日で降ったとの情報が。しかも、それが2日も。
仕込む予定だったブドウは収穫量云々どころか状態が悪く、病気もかなり出てしまっていた。KUSUDAは元々厳しい選果で有名なワイナリーだが、もうそういうレベルではなくなってしまっていた。

楠田さんは今後の人生、家族の運命を左右する大きな決断を迫られていた。この状態の良くないブドウで無理やりワインを造れば、せっかく築きあげてきたKUSUDAの名声を落とすことにもなりかねない。しかし、ワインを造らなければ1年間無収入になってしまう。設立間もないワイナリー、そんな体力があるとは到底思えない。そんな人生の分け目のような判断をたった2、3日中に下さなければならなかったのである。

私は無力で何もできなかった。意見を言うどころか、声を掛けることすらも。
ただ、目に焼き付けようと強く思った。どちらに転んでもこの状況を正しく伝え、いつか彼の役に立ちたい、と。

彼の判断は「2005年はワインを造らない」だった。

世間的にはとてもカッコよく聞こえる。でも、現実はそんなきれい事で済まされるわけはない。会社を経営していて1年間分売り上げがないなんて選択肢があるだろうか? でも、彼は造らなかった。
なぜなら、彼が目指しているのは「世界があっと驚くようなピノ・ノワール」だからだ。そのために華やかなエリートコースを捨てて、ドイツでゼロから醸造大学に通い、ニュージーランドに家族で移住してきた。もし、あのブドウでワインを造ってしまって、それなりのワインしか造れなかったなら、今までの努力まで無駄にしてしまう。
でも、その決断ができる人は世の中にわずかしかいないだろう。どれだけ成長できたとしても、私にはあの決断ができるとは思えない。

日々、精一杯生きていても、いろいろなアクシデントに巻き込まれる。軽減することはできたとしても、ゼロにすることはできない。ただ、そういう時にこそ、どうやって生きてきたかが問われるのだろう。反省はしても後悔はしない人生を送りたいと、強く思う。







KUSUDA ピノ・ノワール2002





人生の最後に1本だけ飲んでいいといわれたら、迷うことなくこのワインを選ぶ。もうすっかり自分のストックも底を尽いたが、楠田家を訪問すると必ず楠田さんがこのワインをサーブしてくれる。このワインを飲む時にあまり会話は要らない。静かに噛みしめるように身体に入れていくと、自分の居場所がどこにあるかを羅針盤のように示してくれる。そして、いつも初心に帰らせてくれるワインだ。
結局、2005年に仕込みの作業ができなかった悔しさもあり、独立後、何年にも渡って仕込みの研修に行くことになった。楠田さんも、彼のワインも、私にとってあらゆる面において、「師」と呼べる存在である。

藤丸智史(ふじまる・ともふみ)
1976年兵庫県生まれ。株式会社パピーユ代表取締役。ソムリエとして勤務後、海外のワイナリーやレストランで研修。2006年、「ワインショップ FUJIMARU」を開店。大阪市内に都市型ワイナリー「島之内フジマル醸造所」、東京に「清澄白河フジマル醸造所」を開設。食の生産者と消費者を繋ぐ楔役としてワインショップやレストランを展開。 www.papilles.net



























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