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PEOPLE / 生産者・伴走者

大地からの声――19自然の理が教えてくれる。「ヴィナイオータ」 太田久人さん

2020.08.17

連載:大地からの声

世界を代表する自然派ワインの造り手を逸早く発掘しては日本に紹介してきたインポーター「ヴィナイオータ」の代表・太田久人さん。緊急事態宣言解除から3週間後の6月17日、地元・茨城県つくば市に「だだ商店 だだ食堂」を移転オープンしました。創業から22年。ブドウの根の張り方に意識を払うワイン造りのように、店が建つ土地の土中環境を整えるなど、人と食と自然のあるべき関係を問い続ける姿勢はいっそう深さを増しています。



問1 現在の状況

「日常に小さなスペシャルを」を多くの人に。

昨年末の予定だったオープンを諸事情で先延ばししているうちに、新型コロナウイルスの感染が拡大して、人も社会も経済も行き来できなくなる事態に。これでは誰も来店しないかもと思いつつ、いや、こんな時だからこそ、モットーに掲げてきた「日常に小さなスペシャルを」をより多くの人が実感を伴って受け止めてくれるのではないか、と考え直してのスタートでした。
自明な事ですが、私たちは食べることなく生きることはできません。つまり、日々の(日常的な)食事を大切にすることは、“生”を大切にすることと同義。“何気ない日常”という、当たり前のように享受できると信じていたことが、そうではなくなってしまった今だからこそ、「食」が持つ価値や尊さに思い至ってもらいたい……。

「だだ商店 だだ食堂」のコンセプトは「“スーパー”スーパーマーケット」です(笑)。ヴィナイオータのワインだけでも5万本近くのストックがあるのですが、単なるアンテナショップにするつもりなどさらさらありません(笑)。私たちが大好きなワインであるのならば、他社さんが扱っていたとしても積極的に扱いたいと考えています。そして食材は、もともと仲良くさせていただいていた生産者、業者さんのものや、準備期間中に店長が全国を回って見つけてきたものなど、国内外問わず厳選した品揃えとなっています。全国を見渡せばすばらしい生産者はたくさんいると思うのですが、野菜、卵、乳製品などの生鮮食品に関しては、可能な限り近隣の生産者のものを、と考えています。そして一部の野菜は自社菜園で採れたものも……。
販売している食材を中心にして作ったお惣菜も毎日5品ほど用意しています。

お惣菜は「大豆カンパニーの納豆とドライトマトのコロッケ」「フルーツトマトと鹿嶋しらす おからのサラダ」など。


つくば市の大規模開発区域内にあるこの場所は、本来でしたら、何十年もそこにある木を伐採し、平らではない場所を埋め立てるなり掘削するなりして更地になって換地されるはずでした。
しかし、自然が悠久の時間をかけて作り上げた地形には、何らかの意味があるはずです。自然の理に逆らうかのようなヒト都合の乱開発にも納得できない部分がありました。我々が管理する土地だけでも自然の意に沿うものをと考え、店回りの造園・土木・環境改善を「高田造園設計事務所」の高田宏臣さんに依頼。古い樹木を残し、環境が保たれるような造作を施しました。駐車場はコンクリートで覆わずに表土を活かし、土壌の通気性や透水性を高める工夫をしています。

自宅、会社、店、畑が隣り合う敷地の一角に大木が立つ。



通気浸透水脈(土中の水と空気が動くライン。大地の血管)を健全化するための通気孔が所々に設けられている。


6月に刊行されたばかりの高田さんの著書『土中環境』(建築資料研究社刊)に詳しく書かれていますが、「その土地に暮らす人々にとって安全で豊かな環境を保つためには、見えない土の中から健康な状態を保たなければならない」と教わりました。土中の水と空気が健全で滞りなく動く時、土壌は多孔質な状態となり、通気性や透水性、貯水性が増し、菌類を含む微生物やあらゆる動植物が共存し、全てが循環する調和の取れた環境が維持されるそうです。

ナチュラルワイン――この呼び方自体が適切ではないですね。農業、醸造どちらの場面においても、様々な化学的な物質が使われるようになって、まだ100年も経っていません。たかだか50~100年。8000年に及ぶワインの歴史においては点にすぎず、どう考えてもナチュラルワインのほうが本流。ある意味「頭痛が痛い」と言っているようなもの――に魅せられるようになったきっかけは、ある造り手の「ヒサト、森に肥料を与える人はいるか?」との言葉でした。イタリアのヴェネト州でワインを造る「ラ ビアンカーラ」のアンジョリーノ・マウレ。テロワールの本質を厳しく追い求める彼が私を現在のワイン観へと導いたのです。
「平地ではなく丘陵地にある、肥料を一切使わない“森のような畑”からは、多収量は期待できない。でもそんな畑から“賜った”ブドウを使って、その土地を体現するようなワインを造りたい…」と語る彼をきっかけとして、ヴォドピーヴェッツ、マッサヴェッキア、フランク・コーネリッセン……土地の個性をあるがままの姿で表現しようとしている造り手たちとの交流を深め、突き抜けた世界観を持つ彼らのメッセージ性に気付いた。この仕事はもはや自分や家族を養うためだけのものではない、世界を変えるつもりで取り組まなければならない、覚悟してギアを上げた瞬間がありました。彼らが大切にする微生物環境の整った状態は、地球全体に敷衍して考えるべきだ、小さな話をしているんじゃないんだ、と。

畑であれ、蔵であれ、食が生み出される場所も食それ自体も、生命で満ち満ちています。そのことを意識した時に、自分たちは何をすべきか、思い至れるようになるのだと思うのです。「だだ商店 だだ食堂」はそのための入口です。

「だだ商店 だだ食堂」は「僕たちが好きなもの、おいしいと思うものを紹介する場」と太田さん。



問2 気付かされたこと、考えたこと

根本的な問題はどこにあるのか?


コロナ禍は、個人的にも、人類の存亡に関わる問題としても、我々に本当に必要なものは何かをしっかりと見つめ直す機会にしなければいけないと思っています。

ちょっと見回してみればわかりますが、人間は弱い生き物です。服を着なければ生きられない。一人では生きられない。走るのは遅いけど車に乗れるからいいや、などと文明化や分業化によって、あまり高くない身体能力をリカバーしている存在です。
そんな私たちにとって、人と人との接触を制限するという感染拡大予防策は、人間という種のあり方として本当に正しいのか? 正直、納得していない自分がいます。
コロナで亡くなった方の家族が顔を見ることも許されずに埋葬しなければならないという、選ぶ余地のないやり方に、人間的な感情や人間の尊厳を否定されているようにも感じる……。

ワインを通して自然のなりたちを意識してきた人間として、目の前の個々の現象への対処にもまして、ウイルスの感染が拡大していく根本的な問題がどこにあるかを考えたほうがいいと思っています。(ウイルスも含めた)各々の生き物にとっての理想的な居場所がなくなったり、自然界にある絶妙な調和が崩れているのだとしたら、その大半(ほぼ全て)は、地球上で最も暴力的な力を持つ我々ヒトを起因としているのではないでしょうか。ヒトは、自分に都合の悪いもののことを敵視する傾向にありますが、そもそも自然界に善悪という概念は存在しません。ウイルスも、宿主を殺すことに彼らの存在意義を見出しているのではなく、宿主と共に自らの種を存続繁栄させていくことを本能的に望んでいるはず。
感染を拡大させてしまうような状況や環境を人間がつくり出している事実に目を向けなければ、コロナ禍という試練を受けている意味がないようにも感じます。

このような事態になって初めて、“免疫力アップ!”などと言い出しますが、効果があるとされるものを短期間に多量に摂取しても意味がなく、日常的に摂取し続けることでようやく効果が出るもの。日々の食事を大切にしていれば、免疫力は“自然と”高まるのものなのかと。
我々を彩る、“身に着けるもの”よりも先に、我々を形作る“身に入れるもの”に投資すべきなのかと。

問3 これからの食のあり方について望むこと

「おいしい」の意味を考える。


「美味」は「美しい味」と書きます。美というと、優劣のもとに生まれる概念と思いがちですが、本来は唯一無二性を指すものだったと私は考えています(“青は赤より美しい”ではなく、“青には青、赤には赤の美しさがある”と書けばわかりやすいでしょうか)。
そして“おいしさ”という、今やその形や幅が人により千差万別だと認識されている概念も、もともとは機能性を指すものだったのではないでしょうか。食べ物が備えるべき機能性といえば、それは栄養価の高さと消化吸収のしやすさであることは言うまでもないことかと……。

牛肉を例にするとわかりやすいかもしれません。脂身が少なく柔らかい内モモ肉は、生でも良し、優しく火入れしても良し、しっかり火を入れてもおいしく食べられますが、スネ肉などは生だったり、中途半端な火入れでは硬くて食べられたものではありません。
肉の熟成も、酵素の力でタンパク質をアミノ酸へと分解し、旨味を増させるための調理の一種と言えるかもしれませんが、これを我々の消化器官目線で見るなら、「酵素が、自分たちを楽させるために一仕事してくれた。」となる。旨味が強いからおいしいと感じるのか、それとも消化器官に優しいものをおいしいと“思わされている”のか、生き易くするために我々は料理を進化させてきたわけですから、どちらが正しい答えなのかは自明な気がします。
つまり、本来あるべきおいしさとは、物理的、そして精神的にも我々に多くのエネルギー(楽しさ)をもたらすと同時に、食後感が軽く、翌日の活動しやすさ(楽さ)をも与えてくれるものに対して使う言葉なのではないか。

ワインは、ブドウというただ一つの材料だけでつくる、醗酵&熟成という調理を経てでき上がる料理とも言えます。そのワインという料理が持つべき機能面での“おいしさ”は、食欲増進を促すもので、飲み心地が軽く、次の日にダメージを残さないこと、になると思います。

では、ワインが備えるべき美味は?といえば、その年の、その土地の、その品種のブドウにしか表現し得ない唯一無二の美しさ…となり、それらをあるがまま、そしてできる限り余すことなくワインの中に移し込み(映し込み?)たいと願った時、造り手がやるべきことは、“できるだけ~しない”という考えに帰結するのではないでしょうか。ナチュラルワインという言葉の定義に関していろいろな意見がありますが、私個人としては、その造り手が彼自身の良心に従って、畑、セラーどちらの場面においても、この理念に則って仕事をしているかが重要だと考えています。
飲み心地の良いワインを造りたいのでしたら、過剰な量の酸化防止剤は使用しないでしょう。
その土地が元々持っている美しさをワインに表出させたいと想っているのなら、その土地を構成する、そしてその土地を取り巻く自然環境に負荷のかかるような農業は選択しないでしょうし、過剰な施肥もしないでしょう。
そして、それぞれの年が持つ美しさをワインの中に見出したいと考えるのなら、仮に天候に恵まれなかったせいで例年ほどの濃さを持てなかったブドウしか収穫できなかったとしても、セラー(=醸造の場面)で“補正”しようとはしないはず。

農に携わる者としては、健全で質の良い作物がたくさん採れることが最上の喜びなわけですが、自然がルールを決めるゲームに参加している限り、その逆も起こり得る。このようなことを心に刻み込めている人ならば、自然に対する畏敬や諦念といった感覚を“ナチュラルに”持ち合わせているはず……。

我々がワインに魅了されるのは、ワインが造り手の感性というフィルターを通して、自然界に遍在する様々な形態の美を表現している飲み物だからなのだと私は思っています。

大地(自然)に対峙して仕事する人たちは、自然が人智を超えた存在であること、自然をコントロール下に置くことや、屈服させたりすることなどできるはずがないということを、身をもって理解しています。だからこそ、自然と自身の理想との間で、折り合いのつくポイントを常に模索しているのかと。

生産効率、高収量など我々の都合ばかりを優先し過ぎて、折り合いのつかないところにまで来てしまったから、均衡が崩れるのでは?

国と国、企業と個人、生産者と消費者、ヒトと自然(ウイルスも含む)、ヒトの美味と消化器官にとっての美味… どういった世界においても、双方が歩み寄っているポイントに調和、均衡、平和が生まれるのではないでしょうか。

なんにせよ、自然そのものであれ、自然が我々にプレゼントしてくれるものであれ、この世に存在するあらゆる美を享受し、ヒトがヒトとして心豊かに生きていくことを望むのなら、自然の声にもっと耳を傾けなければいけない時代に突入しているのだと私は考えています。

窓の向こうに田園風景が広がる。「空間コストが安い分、ワインを長期貯蔵できる。熟成させた自然派ワインがいかに優れているかを証明して、さらに価値を向上させたい」。



太田久人(おおた・ひさと)
大学時代のアルバイト先でワインに目覚め、卒業後、イタリアでワインを学ぶ。1998年、株式会社ヴィナイオータを設立。岡谷文雄シェフの勧めで北イタリアのワイン生産者「ラ ビアンカーラ」と出会って、ナチュラルワインの世界へ。時代に先駆けるフィロソフィの持ち主を無名時代に発掘しては買い支えてきた。2013年から18年まで営業していた飲食店兼食材店兼酒屋の「ダ ダダ」を「だだ商店 だだ食堂」と店名を一新して6月17日移転オープン。3月上旬はフランス、イタリアの生産者を回ってきた。

だだ商店 だだ食堂
茨城県つくば市流星台56-3
029-896-4091
11:00~18:00
月曜休
https://dada2020.com/




大地からの声

新型コロナウイルスが教えようとしていること。




「食はつながり」。新型コロナウイルスの感染拡大は、改めて食の循環の大切さを浮き彫りにしています。

作り手-使い手-食べ手のつながりが制限されたり、分断されると、すべての立場の営みが苦境に立たされてしまう。
食材は生きもの。使い手、食べ手へと届かなければ、その生命は生かされない。
料理とは生きる術。その技が食材を生かし、食べ手の心を潤すことを痛感する日々です。
これまで以上に、私たちは、食を「生命の循環」として捉えるようになったと言えるでしょう。

と同時に、「生命の循環の源」である生産現場と生産者という存在の重要性が増しています。
4月1日、国連食糧農業機関(FAO)、世界保健機関(WHO)、関連機関の世界貿易機関(WTO)、3機関のトップが連名で共同声明を出し、「食料品の入手可能性への懸念から輸出制限のうねりが起きて国際市場で食料品不足が起きかねない」との警告を発しました。
というのも、世界有数の穀物生産国であるインドやロシアが「国内の備蓄を増やすため」、小麦や米などの輸出量を制限すると発表したからです。
自給率の低い日本にとっては憂慮すべき事態が予測されます。
それにもまして懸念されるのが途上国。世界80か国で食料援助を行なう国連世界食糧計画(WFP)は「食料の生産国が輸出制限を行えば、輸入に頼る国々に重大な影響を及ぼす」と生産国に輸出制限を行わないよう強く求めています。

第二次世界大戦後に進行した人為的・工業的な食の生産は、食材や食品を生命として捉えにくくしていたように思います。
人間中心の生産活動に対する反省から、地球全体の様々な生命体の営みを持続可能にする生産活動へと眼差しを転じていた矢先、新型コロナウイルスが「自然界の生命活動に所詮人間は適わない」と思い知らせている、そんな気がしてなりません。
これから先、私たちはどんな「生命の輪」を、「食のつながり」を築いていくべきなのか?
一人ひとりが、自分自身の頭で考えていくために、「生命の循環の源」に立つ生産者の方々の、いま現在の思いに耳を傾けたいと思います。

<3つの質問を投げかけています>
問1 現在のお仕事の状況
問2 新型コロナウイルスによって気付かされたこと、考えたこと
問3 これからの私たちの食生活、農林水産業、食材の生産活動に望むことや目指すこと
























































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