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PEOPLE / 料理人・パン職人・菓子職人

東京・青山「てのしま」林 亮平 Ryohei Hayashi

2018.10.22

林 亮平
text by Sawako Kimijima photograph(topのみ) by Masahiro Goda

日本料理界を牽引する京都の料亭「菊乃井」で17年。
2011年から本店副料理長、2015年からは渉外料理長を務めて、独立した。
2018年3月、東京・青山で「てのしま」を開く。
菊乃井仕込みの技術をベースに、少し日常に寄った日本料理を提供するその奥には、2つのヴィジョンが潜んでいる。
1.いりこ文化を発展的に伝承する
2.手島(てしま/香川県丸亀市)で店を開く
実はこの店、あくまでもヴィジョン実現に向けた第1ステップなのである。

菊乃井といりこと手島

「ちょうど新物が届いたところです」と、いりこの下処理を始めた。
よく「頭と内臓を取り除いて身を開く」と言われるが、林さんは頭を取らない。「エラと内臓だけ取り外して身を開く。頭からは良いだしが出ますので」。このやり方を仕入先の「やまくに」に教わった。
やまくには香川県観音寺市で1887年創業のいりこ専門店である。観音寺の西に浮かぶ伊吹島、カタクチイワシの絶好の漁場と言われる島で水揚げして、直ちに茹で上げと乾燥、選別から袋詰めまで、すべてを手作業で行う。頑固一徹の職人一家だ。お父さんの山下公一さんは全国を飛び回るいりこの伝道師。「いりこのおっちゃん」の愛称で親しまれている。

17年間修業を積んだ京都の料亭「菊乃井」で、いりこは、まかない用の食材だった。営業に使われるのは、最高峰の昆布問屋、奥井海生堂から仕入れる昆布、そして、初代が料亭を立ち上げる前より営んでいた乾物商、村田商店が納める枕崎産の本枯れ節。一方のまかないには、鯖節、いりこ、昆布の二番だしと決まっていた。
「鰹節や昆布はハレのだし。いりこはケのだし」と林さん。
戦後、家庭料理がテレビや雑誌を通して料理人や料理研究家から教わるものになった。それに伴い、鰹節や昆布で取るだしが一般化したが、「本来、日本人の生活に根ざしていたのはいりこじゃないか」と林さんは考える。瀬戸内のいりこ文化圏で育った人間としても、自店をいりこの底力を再発見する場にしたいと思うのだ。

手にしているのは香川県観音寺市「やまくに」のいりこ。「とにかく質が良い。銀色に光って、パカッときれいに割れる」。にゅうめんのだしの他、ぬたの和え衣にも使う。「これは大羽。中羽が理想だけれど、最近、獲れないらしくて。もし、中羽が手に入ったら、椀物のだしもいけるんじゃないかな」。

手にしているのは香川県観音寺市「やまくに」のいりこ。「とにかく質が良い。銀色に光って、パカッときれいに割れる」。にゅうめんのだしの他、ぬたの和え衣にも使う。「これは大羽。中羽が理想だけれど、最近、獲れないらしくて。もし、中羽が手に入ったら、椀物のだしもいけるんじゃないかな」。

下処理をしたいりこは昆布と共に前日から水に浸けておく。火にかけて65℃で1時間~1時間半、徐々に温度を上げていって、沸いたところで漉す。と、魚臭さは消え、クリアな中にも芯の太い旨味が貫くだしが取れる。音色で言えば、鰹節がバイオリンなら、いりこはさしずめヴィオラかチェロ。このだしで食べるにゅうめん(麺は小豆島産)がもたらす恍惚感といったら。

「当初、すべての料理をいりこでと試行錯誤を重ねたんですよ」、そうならなかったことを悔しそうに林さんは語る。「ポン酢も刺し身醤油もいりこでいける。茶だしにするとすばらしくおいしい。でも、椀物だけは納得がいかなかった。いりこが持つ脂分のせいか、キレがなくなってしまって」。
結局、料理に合わせて、鰹節、昆布、いりこを使い分ける。菊乃井で叩き込まれた京料理の真髄を損なうことなく、いかにいりこの可能性を切り拓くか。林さんのスタンスは明快だ。


世界を見て、日本が見えた。

いりこに着目したこと自体、林さんが菊乃井で働いていたからと言っていい。
大学で料理サークルを立ち上げるほどの料理好きだった林さんは、就活の真っ最中、すでに内定をいくつか取りながら、「やっぱり好きなことをやったほうがいい」と路線変更して菊乃井の扉を叩いた。
「修業を希望する旨を葉書にしたため、坊主頭に刈り上げて、スーツを着て、店まで直接届けに行きました」

調理師学校も出ていなければ、修業をゼロから始める若さでもない。大学出のお兄さんが一時の気の迷いでやって来たと思われぬよう、必死で本気を示したわけである。
採用が決まって、本気度はパワーを増す。パソコンを後輩に譲るなど学業に関わるものはことごとく手放して菊乃井へ。ところが皮肉なもので、ちょうどその頃、主人の村田吉弘氏は、和食文化の世界発信に向けて対外的な活動が活発化。大学出の林さんは何かと重宝がられることになる。
「気付いたら、大将の秘書状態でした」

撮影の立ち合いに始まり、出張の同行も数知れず。訪ねた国は20カ国以上。料理フェアやコラボ、飛行機や客船の食事の考案、首相官邸でのディナー、国際会議の公式晩餐会……様々なイベントや企画の要請に応えるべく、プランを立て、手配をし、先遣隊として現場入りして準備を整えるのが林さんの仕事になった。
「迎える側は、大将のために、見るべきものを凝縮して案内する。同行者の役得ですよね、様々な土地で三ツ星レストランからローカルな市場まで濃密に体験できた」
また、上海万博では日本産業館のレストランの料理長を務め、半年間、現地に滞在。
「日本料理を通して世界を見た」――それが菊乃井時代の林さんを表現する言葉だ。

同時に、それらの経験は「外から日本を見る」という作用を及ぼした。
日本料理って何だろう? 日本人って何だろう? 林さんは問い直し始める。
「日本料理には型があります。日本の道――剣道、柔道、茶道、華道、等――に型があるのと一緒です。型を身につけるため、みな修業をする。でも、いつしか型が鎧になって、鎧と皮膚が一体化して、鎧を脱げなくなってしまうんです」
それでは自分も本質も見失う。林さんは、鎧と皮膚が一体化しないように心掛けた。やがて足元に見えてきたのが、だしの風景だ。現代では鰹だしや昆布だしが日常化している。でも、元々、身近だったのはいりこじゃないか。
「いりこだしを読み解こう。それが僕のテーマのひとつになった」


人口20人の島文化を絶やさぬよう。

2つめのヴィジョンも、菊乃井時代に世界を見たから生まれたという。
「手島に一族の本家があります。毎年お盆に訪れる、自分のルーツとなる島です。かつて千人を数えた人口がいまやたった20人。商店もなければ、病院もない。信号機もなく、街灯もない。だからこそ風俗・風習が残っている。文化遺産のような島です」

高齢化が進んだ限界集落。放っておいたら、人口は減るばかり。林さんはこの島をなんとかしたい。
「瀬戸内海と言えば村上水軍が有名ですが、並び立つ塩飽(しわく)水軍の本拠地だった前者は戦闘、後者は造船・操船に優れていたと言われます。昭和に入ってなお両墓制を守り、浜に埋め墓、寺に詣り墓を持つ風習がある。そんな歴史も景色も残したい」

海外出張が増え始めた頃だった。一族の長老から言われたという、「お前には帰る場所があることを覚えておけ」。
「実際、帰る場所があると思えることは、人を強くすると知りました」
あの言葉に報いるためにも、林さんは手島で店を開こうと思う。
「まだだめです。力が足りない。東京で人脈を広げて、もっと僕のこと、手島のことを知ってもらってから。力を蓄えてからがいい」。
そのための今の店なのである。