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PEOPLE / 食の世界のスペシャリスト

新しい知が集まる島。海士町は未来へのタグボート。

島根「風と土と」代表 阿部裕志

2023.11.30

海士町を新しい知が集まる島に。島根「風と土と」代表 阿部裕志
text by Sawako Kimijima / photographs by Kazetotuchito

アリス・ウォータースの著書『スローフード宣言――食べることは生きること』の日本での版元が「海士の風(あまのかぜ)」と聞いて、「どこの出版社?」と思った人も少なくないのではないか。なにしろ『スローフード宣言』を含めてラインナップはたった3冊という、島根県海士町の極小出版社である。しかし、代表である阿部裕志さんの見つめる先を知ると、アリスが彼らに託した理由がわかるような気がする。

目次






アリス・ウォータースが選んだ無名の出版社

優れた文章があったとして、読者を獲得するには、編集や造本の技術はもちろんのこと、営業力や販売力も必要だ。でなければ、著者の意図は届かない。翻訳権取得のオファーをアリスの代理店に提出した時点で既刊が2冊だけという海士の風のキャリアは、それらを保証するようには見えなかったに違いない。にも関わらず、大手出版社も含まれていたであろう競合の中から、アリスは海士の風を指名した。

代理人から届いた回答には、「彼女の価値観に最も近い出版社と組みたいから、アリスは海士の風を選んだ」と書かれていたという。ビジネス的な優位性よりも自らの信じるものを優先させたわけだ。

この事実は、小さな経済を営む人々を勇気づける。いくらサステナブルとはいえ、こんな小さな取り組みで社会を変えられるのだろうか? どのくらい社会にインパクトを与えているのだろう? 確信を得られないまま、それでもそこに意義(正義と言ってもいい)があると信じて、地道に歩みを進める人たちに、アリスの選択は「あなたの進む道は間違っていない」と語りかける。“小さな経済”を“生かしあう経済”へと育てていこう、そんな呼びかけに聞こえる。

回答に書かれている通り、「価値観」の勝利である。海士の風の母体である「風と土と」が培ってきた価値観、代表の阿部裕志さんが探り続けてきた価値観、そして、海士町が守り続けてきた価値観、さしずめ島全体を形作っている「海士町の価値観」が認められたのだ。


「島を学校にする」

トヨタのエンジニアだった阿部裕志さんが海士町に移住してきたのは2008年。以来、移住者とは呼べないほど海士町に深く根を張り、町づくりに関わってきた。競争社会のあり方に疑問を抱き、温かい関係性ある未来をつくりたいとの思いを抱いていた阿部さんが当初から目指したのは「島を学校にする」こと。「海士を学びの場として、他の地域を良くする人を増やしていく」ことだったという。「少し大袈裟に言うと、海士町を拠点に世界を良くするみたいな・・・」

隠岐の離島、海士町は少子高齢化による人口減少、財政難を抱えていたが、様々な取り組みにより、移住者の定着率が高く、2010年以降、人口はほぼ横ばいに。島唯一の高校である島根県立隠岐島前高校には、全国に先駆けて取り組んだ高校魅力化プロジェクトが功を奏して全校生徒の2/3が島外からやってくる。

隠岐の離島、海士町は少子高齢化による人口減少、財政難を抱えていたが、様々な取り組みにより、移住者の定着率が高く、2010年以降、人口はほぼ横ばいに。島唯一の高校である島根県立隠岐島前高校には、全国に先駆けて取り組んだ高校魅力化プロジェクトが功を奏して全校生徒の2/3が島外からやってくる。

「東京から海士町まで8時間。ハワイに着いてしまう所要時間です。金額的にも韓国へ行くほうが安かったりする。普通の観光では他所の土地に勝てないと思った。わざわざ足を運んでもらうコンテンツが必要。であるならば、“学び”という観点でプログラム化しよう、と」

その試みは「海士五感塾」としてスタート。試行錯誤を重ねて、現在では「SHIMA-NAGASHI」の名称で運営される次世代リーダー・経営者候補向け、複数社混合の研修プログラムへと発展している。
「未来の予測が成り立つ時代には力で引っ張るリーダーシップが求められる。でも、正解が見えない昨今の社会状況下、未来は予測するものではなく、自分たちでつくるものになった。そんな時代に必要なのは心を動かすリーダーシップ。正解かはわからないけれども、腹落ちした言葉で未来を語り、周囲に共感を呼び起こして一緒に前に進んでいく。そんな力を養う研修をつくり上げてきた」
地域課題や企業課題の解決策に一般解はない。要件はすべて異なり、方程式のあてはまらない特殊解ばかり。解決法や解決策を伝授するのではなくて、解を導き出す人材を育てなければ解決しない。阿部さんはそう考えたのだった。

ユニークなのは、海士の人々、海士町そのものがリソースである点だ。
「五感塾のスタート時、70歳の定置網漁船の漁労長、田仲菊照さんの話を聞くというプログラムを設けました。田仲さんには『中卒のオレが大卒のみんなに教えることなんて何もないぞ』と言われたけれど、そこを説得して、僕が聞き手になり、ライフヒストリーを語ってもらった。両親と別れることになり、お祖母さんに育てられたこと、50年前に奥さんの実家のある海士町に越してきたこと、漁の子分はみな可愛い子供だと思っている、働く人は大切にしなければいけない、だから自分は30分早く4時には出社してみんなにお茶を淹れて待つんだ、等々、そこには生き方の教えが詰まっていて、めちゃくちゃ感動的だった」

定置網漁船の漁労長・田仲菊照さんの話は、無意識の人生訓になっている。

定置網漁船の漁労長・田仲菊照さんの話は、無意識の人生訓になっている。

料理上手な主婦、波多美智子さんの料理教室も人気プログラムだった。

料理上手な主婦、波多美智子さんの料理教室も人気プログラムだった。

阿部さんはなぜ、海士町の住民を引っ張り出したのか?
「この島の人たちは挨拶や助けあいなど、人として当たり前のことを、当たり前として大切にし続けている。トップに立つ人こそ持ってほしいと思うマインドがここにあるからです。同時に、僕はいつも、ここにいる人たちとどうやっていくか、ここにあるものをどう生かし切るかを考える」

「ないものはない」。それが海士町のキャッチフレーズ、島のアイデンティティだ。「We have nothing? We have everything?」。コンビニはないし、デパートもない、シネマもない。都市のように便利なものは何もないけれど、ないものはなくていい。だって、生きるのに必要なものはすべてここにあるのだから。
人材研修にふさわしい教材も島にある。受講生には「生きるのに必要なものはすべてここにある」という価値観にも気付いてほしかった。

「ないものはない」、このキャッチフレーズが海士の人々の拠り所。

「ないものはない」、このキャッチフレーズが海士の人々の拠り所。

21年からは早稲田大学ビジネススクール教授の入山章栄(あきえ)さんを監修者に、プログラムディレクターにウェルビーイング経営実現に取り組む「YeeY」の島田由香さんを迎えて、バージョンアップを図っているが、島の自然や人々との交流によって気付きを得るプログラムであることは変わらない。五感塾の頃から数えれば、15年間で200回・120団体・2400人が体験。味の素、サントリー、トヨタ自動車、三菱重工、カインズ、JT、パーソルホールディングス、リコー、Google、ソフトバンク、日立製作所、ロート製薬など、錚々たる企業の参加実績を誇る。「地域のコンテンツを磨き上げれば、ここまでニーズが得られる」という手応えを、阿部さんは噛み締めている。

島特有の地形を活かしたプログラムが盛りだくさん。摩天崖を歩くディープタイムウォークやゆっくり歩くマインドフルウォークなどで身体知を認識する。青空教室も多数。

島特有の地形を活かしたプログラムが盛りだくさん。摩天崖を歩くディープタイムウォークやゆっくり歩くマインドフルウォークなどで身体知を認識する。青空教室も多数。

船釣りも身体知を得る重要なプログラム。全身の感覚を研ぎ澄まして、船、海、風、魚と向き合う中で気付く事柄は数知れず。

船釣りも身体知を得る重要なプログラム。全身の感覚を研ぎ澄まして、船、海、風、魚と向き合う中で気付く事柄は数知れず。

瞑想タイム。自分自身の心の中を見つめ、感じたことを考える内省の時間が、身体知で得た気付きを次のステップへと進めてくれる。

瞑想タイム。自分自身の心の中を見つめ、感じたことを考える内省の時間が、身体知で得た気付きを次のステップへと進めてくれる。

綱引きで得る身体知のインパクトは大きい。力の入れ方、抜き方、声のかけ方など、自分とチームとの関係性がストレートに表れる。

綱引きで得る身体知のインパクトは大きい。力の入れ方、抜き方、声のかけ方など、自分とチームとの関係性がストレートに表れる。

SHIMA-NAGASHIの定番は、島留学している高校生との対話。普段接する機会のない人たちとの対話を通じて写し鏡に自分を見る。

SHIMA-NAGASHIの定番は、島留学している高校生との対話。普段接する機会のない人たちとの対話を通じて写し鏡に自分を見る。


本を出版するのは「島の知」を高めるため

出版社「海士の風」の設立は2019年2月。「1年間で3タイトルの刊行」を掲げて立ち上がったが、現実にはもっとスローな展開となった。1冊目『進化思考』が2021年4月(1週間で3万部を記録)、同年12月に2冊目『「わかりあえない」を越える』、そして、22年10月に『スローフード宣言』。ラインナップはまだ3冊というスローっぷりだ。

「年間売上目標も設けていないし、そもそも、本の出版がゴールではない」と阿部さん。「根底にあるのは、人と人、人と自然の温かい関係性ある未来をつくりたいとの思い。だから、本から生まれるコミュニケーションや、本から行動や活動が派生することを目指している。そして、著者が集う島にしたいんです」
その言葉に違わず、『スローフード宣言』出版1周年のタイミングでアリス・ウォータース来日ツアーを企画し、アリスのドキュメンタリー映画製作のためのクラウドファンディング(592人による支援総額11,207,500円)を実施した。
「使えば使うほど減っていくものが多い世の中に対して、使えば使うほど増えるのが関係資本。コミュニケーションが増えるほど、人と人との関係性は深まります」
そのきっかけとなる本をつくるわけである。

アリス・ウォータースの来日ツアーは、様々な人々を巻き込んで、10日間にわたり国内7カ所を巡る壮大な旅となった。

アリス・ウォータースの来日ツアーは、様々な人々を巻き込んで、10日間にわたり国内7カ所を巡る壮大な旅となった。

行く先々でアリスの語った言葉が人々の心に未来への種を蒔いていった。

行く先々でアリスの語った言葉が人々の心に未来への種を蒔いていった。

この「関係資本」を阿部さんは常日頃から大切にしている。本の出版も、海士の風が発行して「英治出版」が販売を担うという、関係資本の賜物にほかならない。
「風と土とという会社自体、関係資本で経営している。僕たちには、株主や事業アドバイザーという立場から、あるいはそれ以外にも、アイデアを投げ掛けてくれて、取り組みを手伝ってくれる心強い応援団がいます。その存在が資本であり、彼らとの関係性によって事業の手足を拡張していけるんです」


自分たちで未来を考えられる地域になる

「どうして地方が衰退していったのか。人口や経済という理由はもちろんあるけれど、自分たちの未来を自分たちで考える力が下がったからではないか」と阿部さん。

だから、阿部さんが目指すのは、地域の自立と自律だ。自分たちはこれからどのように行動すべきか、どのように生きていくべきかを、自分たちで考えられて、自分たちで決められること。「知恵の自立が地域の自律をもたらすと思う」。

人材研修に住民を巻き込むのも、出版社を作って著者が集う島になろうとするのも、自立と自律を思い描くがゆえ。
「最近、海士の人たちの言語化レベルが凄いんです」と阿部さんは言う。
人材研修プログラム「SHIMA-NAGASHI」では「対話」が重視されるが、それは他人との対話によって、内なる思いを認識し、言葉にする作業が行われ、ヴィジョンが明確化される、というプロセスがあるからだ。
「地域創生の先進地と見なされる海士町には、プロジェクトで来島する人、島留学の生徒たち、移住者、研修で訪れる都市生活者、実に多様な外来者がやってくる。彼らとのコミュニケーションを重ねるうちに、島人たちの言語化能力が磨かれたんじゃないかな」

島へ学びに来る人々と島の住民との語らいが、島の知を高めていく。

島へ学びに来る人々と島の住民との語らいが、島の知を高めていく。

「島が学校」という阿部さんの構想は着実に形をとりつつある。
「叡智は都市に集中しがち。でも、東京から8時間かかる島にいながらも最先端の知恵を学べることを実現していったなら、新しい知が集う地域になっていくと思うし、地域の自立・自律につながるんじゃないか。世界中が自律した地域の集合体であったらいい」
日本の社会課題の縮図のような土地だからこそ、解決の糸口を示すことで未来へのタグボートの役割を果たせるのではないかと阿部さんは考えている。

阿部裕志(あべ・ひろし)
1978年愛媛県生まれ。京都大学大学院にてチタン合金の研究で修士号を取得後、トヨタ自動車入社。2008年に島根県の離島、海士町に移住し、株式会社巡の環(めぐりのわ)を共同創業。島の魅力を高める地域づくり事業、島外の企業や自治体、大学の研修を海士町で行う人材育成事業などを手掛ける。田んぼ、素潜り漁、神楽などローカルな活動を実践しつつ、イギリス・シューマッハカレッジやドラッカースクール・セルフマネジメントなどのエッセンスを活用した研修プログラムづくり、JICA提携による海士町とブータンの交流づくりなど、グローバルな視点も取り入れてきた。2018年「風と土と」に社名変更、2019年には同社内に出版事業「海士の風」を立ち上げる。


◎風と土と
https://kazetotuchito.jp/

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