荒井康成さん(あらい・やすなり) 料理道具コンサルタント
第2話「憧れを追い求めて」(全5話)
2016.05.01
同世代に生まれて
1966年、銀座に雑貨の黒船がやってきました。「ソニープラザ」です。アメリカのドラッグストアをヒントに、ポップでカラフルなアメリカ製の文具やお菓子を並べた店は、一躍話題に。
「ソニープラザの誕生こそは、日本における輸入雑貨のはじまりであり、雑貨店のパイオニアとも言えるものだった」と荒井さんは著書に書いています。
荒井さんは、2年後の1968年に誕生。その半生は、日本人の暮らしに海外の生活雑貨が浸透していく歴史と重なります。
「ソニープラザの誕生こそは、日本における輸入雑貨のはじまりであり、雑貨店のパイオニアとも言えるものだった」と荒井さんは著書に書いています。
荒井さんは、2年後の1968年に誕生。その半生は、日本人の暮らしに海外の生活雑貨が浸透していく歴史と重なります。
海外の暮らしに対する憧れ
海外の生活雑貨に対する憧れが芽生えたのは幼少期。母親の影響で、『奥様は魔女』や『世界の料理ショー』など、海外番組をよく見ていました。一方、荒井家の現実は団地住まい。そのギャップから、海外の暮らしぶりが一層キラキラと輝いて見えました。
そしてやはり、ソニープラザの影響も大きく受けて育ちます。
放課後、銀座の会社に勤めていた母親と待ち合わせて、毎週のようにソニプラ通い。いつか一人暮らしをするなら、あれとこれを買ってと、ますます夢が膨らみました。
高校3年生になると、いよいよソニープラザでアルバイトを始めます。
「アフターヌーンティー」や「F.O.B.COOP」のオープンに続き(共に1981年)、ショップインカフェが流行り始めていた時代。生活雑貨も、世界中から次々に新しいものが入ってきて、刺激に溢れていました。
荒井さんはデザイン系の大学に進学し、雑貨やデザイン雑誌を愛読書としながら、アルバイトに熱中。
下北沢や恵比寿の、雑貨を扱う個人商店にも足繁く通いました。
そしてやはり、ソニープラザの影響も大きく受けて育ちます。
放課後、銀座の会社に勤めていた母親と待ち合わせて、毎週のようにソニプラ通い。いつか一人暮らしをするなら、あれとこれを買ってと、ますます夢が膨らみました。
高校3年生になると、いよいよソニープラザでアルバイトを始めます。
「アフターヌーンティー」や「F.O.B.COOP」のオープンに続き(共に1981年)、ショップインカフェが流行り始めていた時代。生活雑貨も、世界中から次々に新しいものが入ってきて、刺激に溢れていました。
荒井さんはデザイン系の大学に進学し、雑貨やデザイン雑誌を愛読書としながら、アルバイトに熱中。
下北沢や恵比寿の、雑貨を扱う個人商店にも足繁く通いました。
映画の世界が現実に
そんな折、北原照久氏が館長を務める「横浜ブリキのおもちゃ博物館」の中にある「クリスマス・トイズ」という店に出会います。コンセプトは、「365日クリスマスの店」。
「外国人が住んでいた家をリノベーションした建物だったのですが、家がそのまま店舗になっているという、外国映画でしか見たことのないような佇まいだったんです。壁にも一面に商品が飾られていて、見る物すべてがサプライズ。本当にいつ行ってもワクワクドキドキするお店でした」。
「外国人が住んでいた家をリノベーションした建物だったのですが、家がそのまま店舗になっているという、外国映画でしか見たことのないような佇まいだったんです。壁にも一面に商品が飾られていて、見る物すべてがサプライズ。本当にいつ行ってもワクワクドキドキするお店でした」。
空間全体で魅せる店作りと、斬新なコンセプトに惹かれ、漠然と「自分の店を持ちたい」という思いを抱くようになります。
紆余曲折を経て大学を中退、デザインと経営を学べる専門学校に入ります。
今度は無事卒業。満を持して再び訪れた「クリスマス・トイズ」で、「興味があるなら、明日また来なさい」と言われ、その場で履歴書を買いに走り、即日提出。採用が決まりました。
紆余曲折を経て大学を中退、デザインと経営を学べる専門学校に入ります。
今度は無事卒業。満を持して再び訪れた「クリスマス・トイズ」で、「興味があるなら、明日また来なさい」と言われ、その場で履歴書を買いに走り、即日提出。採用が決まりました。
ワクワクさせる店作り
店舗研修の後に配属されたのは、新事業として立ち上げられた「シュークリームハウス横浜そごう店」。なんと洋菓子のお店でした。それも店長に抜擢。
シュークリームとの二枚看板で売り出したパンナコッタが、当時まだ一般にはほとんど知られていなかったこともあり、店は連日、大行列に。
「はじめは不満でした、なぜ洋菓子なんだろうと。しかし1年間はお客さんを裁くのに必死。ブームが少し落ち着いて、店作りを考える余裕が出来てくると、次第に面白くなっていきました。百貨店の規定の範囲内であれば『何をやってもいい』と言われていましたので、お菓子だけでなくアンティークのおもちゃもディスプレイして販売するなど、いかにお客さんを楽しませるか、いろいろな工夫をしましたね」。
シュークリームとの二枚看板で売り出したパンナコッタが、当時まだ一般にはほとんど知られていなかったこともあり、店は連日、大行列に。
「はじめは不満でした、なぜ洋菓子なんだろうと。しかし1年間はお客さんを裁くのに必死。ブームが少し落ち着いて、店作りを考える余裕が出来てくると、次第に面白くなっていきました。百貨店の規定の範囲内であれば『何をやってもいい』と言われていましたので、お菓子だけでなくアンティークのおもちゃもディスプレイして販売するなど、いかにお客さんを楽しませるか、いろいろな工夫をしましたね」。
恵比寿ガーデンプレイスに出した2号店でも店長に。入社から2年間、ほとんど休みはありませんでした。
商品に対する誇りを感じる
ちょうどその頃、新宿に「コンランショップ」が、表参道に「マディ」がオープンするなど(共に94年)、新しいスタイルを提案するショップが続々オープン。激務に追われる中、こうした店をゆっくりと見て回ることが、荒井さんの唯一の楽しみでした。
「次第に、たくさんの商品を賑やかに見せるのではなく、商品単品の魅力を、上質なインテリアの一部としてディスプレイする、本物志向の見せ方に惹かれていきました。そこに、一つひとつの商品に対する、店の誇りを感じたんですね」
「次第に、たくさんの商品を賑やかに見せるのではなく、商品単品の魅力を、上質なインテリアの一部としてディスプレイする、本物志向の見せ方に惹かれていきました。そこに、一つひとつの商品に対する、店の誇りを感じたんですね」
運命の出会い
そんなある日、運命の出会いを果たします。舞台は、94年に代官山にオープンした「アッサンブラージュ」。その棚に飾られていたエミール・アンリのチョコレートフォンデュ・セットに一目惚れしたのです。
「色、質感、重量感、丸みを帯びたフォルム……使い道はわからないけれど、かっこよくて。このシリーズを揃えたいという強い衝動に駆られました」
「色、質感、重量感、丸みを帯びたフォルム……使い道はわからないけれど、かっこよくて。このシリーズを揃えたいという強い衝動に駆られました」
「これだ!」
即日、北原氏に退職の申し出をし、「アッサンブラージュ」への転職を決めました。
「アッサンブラージュ」の親会社である南海通商は、当時、エミール・アンリの正規輸入を始めたばかりで、ちょうど営業部署を作ろうとしているところでした。他に男性がいなかったこともあり、荒井さんは入社早々、営業リーダーに抜擢。その後、11年に渡り、エミール・アンリのブランドを日本で育てていくことになります。
「アッサンブラージュ」の親会社である南海通商は、当時、エミール・アンリの正規輸入を始めたばかりで、ちょうど営業部署を作ろうとしているところでした。他に男性がいなかったこともあり、荒井さんは入社早々、営業リーダーに抜擢。その後、11年に渡り、エミール・アンリのブランドを日本で育てていくことになります。
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