鈴木鉄平さん&山代徹さん「青果ミコト屋」
第2話「野菜は生活を変えるツール」(全5話)
2016.04.01
お金儲けの先に見えた、
プリミティブな生活の豊かさ
「ミコト屋」を始めた、鈴木鉄平さんと山代徹さん。
二人は高校時代の同級生。神奈川県青葉区の「自然がやたらある郊外の街」で出会いました。「何も考えないで情熱で突っ込む」タイプの鉄平さんと、「一歩引いて冷静に分析できる」徹さんと、真逆の性格ながらも出会ってすぐに意気投合。クラブ活動もアルバイトも一緒の3年間を過ごしますが、卒業後、二人は別々の進路に進みます。
大学時代、進むべき道が分からず、悶々としていたという鉄平さん。精神性や生き方に惹かれ、大学を休学してアメリカのネイティブアメリカン居住地に行き、1年間住んだ時期もありました。
徹さんと再び歩を揃えるのは社会人に入ってから。鉄平さんが就職した「ちょっと怪しげな」ジュエリー販売会社に、徹さんも転職してきたのです。
二人は高校時代の同級生。神奈川県青葉区の「自然がやたらある郊外の街」で出会いました。「何も考えないで情熱で突っ込む」タイプの鉄平さんと、「一歩引いて冷静に分析できる」徹さんと、真逆の性格ながらも出会ってすぐに意気投合。クラブ活動もアルバイトも一緒の3年間を過ごしますが、卒業後、二人は別々の進路に進みます。
大学時代、進むべき道が分からず、悶々としていたという鉄平さん。精神性や生き方に惹かれ、大学を休学してアメリカのネイティブアメリカン居住地に行き、1年間住んだ時期もありました。
徹さんと再び歩を揃えるのは社会人に入ってから。鉄平さんが就職した「ちょっと怪しげな」ジュエリー販売会社に、徹さんも転職してきたのです。
学生時代に見いだした価値観とは真逆の、カネ(売上)がモノをいう世界。二人は、独立して支社を立ち上げるまでの営業成績をたたき出しながらも「これは自分のしたい生活ではない」と葛藤していました。
お金を稼ぐ楽しさと、自分の憧れる生活のギャップが、いつしか大きくずれていきました。入社して3年後、「人生の意味を見失っちゃって」二人揃って会社をドロップアウト。稼いだお金を持って、タイ、ネパール、インドと放浪の旅に出ます。
お金を稼ぐ楽しさと、自分の憧れる生活のギャップが、いつしか大きくずれていきました。入社して3年後、「人生の意味を見失っちゃって」二人揃って会社をドロップアウト。稼いだお金を持って、タイ、ネパール、インドと放浪の旅に出ます。
旅先の山村の生活に触れ、お金儲けに追われる生活とは対局の、プリミティブで豊かな暮らしに多くを学んだことが、そのライフスタイルの入口として農業、そして野菜に興味を持ち始める契機になったと二人は言います。
「土に触れたい。自分たちが食べるものは、どう育ったのか、きちんと知りたい」
そんな思いが、後にミコト屋を作らせる核となっていきます。
「土に触れたい。自分たちが食べるものは、どう育ったのか、きちんと知りたい」
そんな思いが、後にミコト屋を作らせる核となっていきます。
ノマディックな働き方に憧れて
放浪の旅から帰ってきた二人は、農薬や肥料を与えず育てる「自然栽培」に傾倒していきます。同時期の2000年に、自然食品などを販売する「ナチュラルハーモニー」が、鉄平さんたちの地元・江田にライフスタイル提供型店舗「プランツ」を開業。自然栽培の野菜はもとより、ヘンプ素材の洋服や小物、フェアトレードのクラフトなどを販売し、そこで開催される数々のイベントは、自然や環境に意識の高い人たちの交流の場となっていたのです。
二人は、代表の河名秀郎さんに頼み込み、千葉の自然栽培農家で1年間の農家研修に入りました。生活も仕事も共にした1年間、毎日畑に出て、スタッフたちと一緒に食事も共にする生活をします。 その後は、また別々の道を選びます。続けて農業の道を選んだ鉄平さんに、営業マンとして会社員に戻った徹さんでしたが、数年後、再会を期に共同経営の話が持ち上がります。
鉄平さんは言います。
「畑仕事を2年間やって、『買うもの』だと思っていた米や野菜が身近になって、いざとなれば自分で作れるぞという感覚が得られたんです。これなら野菜にまつわることを生業とできるんじゃないかって」
営業マンに戻っていた徹さんは「農家さんは作るのはプロだけど、流通まで手が回らない。僕らだったらその手伝いができる」とも感じていました。
畑と個人の食卓をつなぐ「八百屋」として、野菜を通してライフスタイルを提案していこう――。こうして独立の青写真ができていったのです。
「主軸は野菜宅配と決めていました。独立前は、若い人たちに野菜という土臭いものをどうスタイリッシュに見せるかということを、あれこれ考えていましたね」
でもそれなら、実際の店舗があったほうがコンセプトを伝えやすかったのでは?
宅配を選んだ理由を聞いてみると、「現実的には資金がなくて」と笑う。
「思想的な大きな理由としては、どこか自分たちの中に、ノマディック(遊牧民的)な生き方に対する憧れがあったのだと思う。どこでも生きられる力をもっていたいという気持ちが、移動式の八百屋にさせたんじゃないかな。その思いは、震災を経てさらに強まっています。一方で、必要性もひしひしと感じていることは確か。すぐにとは思っていないけれど、いつか店舗を作る時期は来ると思います」
二人は、代表の河名秀郎さんに頼み込み、千葉の自然栽培農家で1年間の農家研修に入りました。生活も仕事も共にした1年間、毎日畑に出て、スタッフたちと一緒に食事も共にする生活をします。 その後は、また別々の道を選びます。続けて農業の道を選んだ鉄平さんに、営業マンとして会社員に戻った徹さんでしたが、数年後、再会を期に共同経営の話が持ち上がります。
鉄平さんは言います。
「畑仕事を2年間やって、『買うもの』だと思っていた米や野菜が身近になって、いざとなれば自分で作れるぞという感覚が得られたんです。これなら野菜にまつわることを生業とできるんじゃないかって」
営業マンに戻っていた徹さんは「農家さんは作るのはプロだけど、流通まで手が回らない。僕らだったらその手伝いができる」とも感じていました。
畑と個人の食卓をつなぐ「八百屋」として、野菜を通してライフスタイルを提案していこう――。こうして独立の青写真ができていったのです。
「主軸は野菜宅配と決めていました。独立前は、若い人たちに野菜という土臭いものをどうスタイリッシュに見せるかということを、あれこれ考えていましたね」
でもそれなら、実際の店舗があったほうがコンセプトを伝えやすかったのでは?
宅配を選んだ理由を聞いてみると、「現実的には資金がなくて」と笑う。
「思想的な大きな理由としては、どこか自分たちの中に、ノマディック(遊牧民的)な生き方に対する憧れがあったのだと思う。どこでも生きられる力をもっていたいという気持ちが、移動式の八百屋にさせたんじゃないかな。その思いは、震災を経てさらに強まっています。一方で、必要性もひしひしと感じていることは確か。すぐにとは思っていないけれど、いつか店舗を作る時期は来ると思います」
移動式の八百屋で続けられたのは、当初、顧客を地元の青葉区に限定し、自分たち自身で野菜を宅配していたから。「30軒からのスタートだったけれど、安定した収入があったのは有難かった。イベント出店だけだと雨が降ったらおしまい。宅配があるから、イベントで冒険できるところはありますね」と徹さん。
ただ野菜を送るのではなく、レシピやコラムを付けて渡すなど(これが、かなりの力作!)野菜を通した生活を提案し、それに賛同してくれる人が増えつつありました。
そんなときに東日本大震災が起きたのでした。
(次の記事へ)
ただ野菜を送るのではなく、レシピやコラムを付けて渡すなど(これが、かなりの力作!)野菜を通した生活を提案し、それに賛同してくれる人が増えつつありました。
そんなときに東日本大震災が起きたのでした。
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