佐藤美恵子さん(さとう・みえこ)仏ワーキングホリデー就労サポート
第2話「100通書いた履歴書」(全5話)
2016.12.01
就労ビザに泣く
社会人となった1986年は、バブル経済の始まりの年でもありました。
いまのような熾烈な就職活動もなく、学生が会社を選べる時代。まさに売り手市場で、内定者を確保するために「隔離旅行」を行うなどの噂も、まことしやかに囁かれていました。
佐藤さんも大学推薦で森ビルに就職。同期は30人いたといいます。退職した92年、バブルは既に崩壊していたものの、まだ少しの景気の良さは残っていました。
アルバイトや就職の求人雑誌はまだ分厚かった時代。
「就職の厳しさを知らなかったから、(働き口は)どうにかなると思っていたのかも。若さも突っ走れた一因でしょうね」と、振り返ります。
いまのような熾烈な就職活動もなく、学生が会社を選べる時代。まさに売り手市場で、内定者を確保するために「隔離旅行」を行うなどの噂も、まことしやかに囁かれていました。
佐藤さんも大学推薦で森ビルに就職。同期は30人いたといいます。退職した92年、バブルは既に崩壊していたものの、まだ少しの景気の良さは残っていました。
アルバイトや就職の求人雑誌はまだ分厚かった時代。
「就職の厳しさを知らなかったから、(働き口は)どうにかなると思っていたのかも。若さも突っ走れた一因でしょうね」と、振り返ります。
1年の予定で渡ったフランスも、9カ月の留学期間で資金が底をつき、佐藤さんはフランスでの就職活動を始めます。
書いた履歴書の数は100通以上。ほとんどが門前払いで断られたといいます。
最終面接まで残ったのは2社。しかし、いずれも最終的に採用されたのは就労ビザを持っている人でした。
書いた履歴書の数は100通以上。ほとんどが門前払いで断られたといいます。
最終面接まで残ったのは2社。しかし、いずれも最終的に採用されたのは就労ビザを持っている人でした。
「いま振り返っても、こうしたらよかったという後悔は全くありません。考えられる限りのすべてのことをしてダメだった。そして突き当たる問題は必ず同じで、私が就労ビザを持っていないことだったのです。これでは、いつまで粘ってもダメだと諦めがつきました」
失意の佐藤さんは、パリ中がお祭り騒ぎとなる「パリ祭」の翌日、フランスを離れました。
けれど、自分には日本という帰る場所がある。そんなふうにも思っていました。
失意の佐藤さんは、パリ中がお祭り騒ぎとなる「パリ祭」の翌日、フランスを離れました。
けれど、自分には日本という帰る場所がある。そんなふうにも思っていました。
「フランスに行っていた子なんて、雇えないよ」
「後悔はしていないものの、ショックは受けていた」と佐藤さん。
呆然として帰国した彼女に追い討ちをかけたのは、日本での就職難でした。
1993年。求人数は減り続け、新卒の大学生が就職できない「就職氷河期」がやってきていました。履歴書を持って就職活動を続ける佐藤さんにも厳しい言葉が突きつけられます。
「フランスに行っていた子なんて、ウチでは雇えませんよ」
社会全体が暗く後退する中、一流企業を辞めてフランス留学をしてきた経歴は、逆に経営者の神経に触ったのでしょうか。面接を受けては落ちる日々に疲れ、佐藤さんは実家に引きこもりがちになっていました。
呆然として帰国した彼女に追い討ちをかけたのは、日本での就職難でした。
1993年。求人数は減り続け、新卒の大学生が就職できない「就職氷河期」がやってきていました。履歴書を持って就職活動を続ける佐藤さんにも厳しい言葉が突きつけられます。
「フランスに行っていた子なんて、ウチでは雇えませんよ」
社会全体が暗く後退する中、一流企業を辞めてフランス留学をしてきた経歴は、逆に経営者の神経に触ったのでしょうか。面接を受けては落ちる日々に疲れ、佐藤さんは実家に引きこもりがちになっていました。
フランスを捨てる
そんな佐藤さんに喝を入れたのは、母でした。
「あなた、家に生活費も入れないで居候するつもり? 人間は生きるために食べなくてはならない。そのために稼がなくてはならないでしょう」
「あなたには、心のどこかに『フランスに行ったんだから』という奢りがあるの。そのプライドを捨てなさい。生活費を入れないのなら、出て行ってもらいます」
ここから、「人生、甘くはないということを実感した、どん底の2年間」が始まります。
街でアンケートをとるアルバイトや、レストランでのサービス、乗馬センターでの受付、設計事務所でのお茶汲みや掃除・・・。生活のために、できることは何でもやりました。
「仕事がない、仕事がない、とよく聞きますが、仕事はあるものです。選ばなければ。やりたい仕事を選んでいる余裕はありませんでした」
生活のための仕事でしたが、どの仕事も後の糧になることに。
「設計事務所では設計図の書き方も覚えたんです。定規に沿って線を引くときに、鉛筆を回しながら引くなんて、いまの仕事と何の関係もないように思えますよね(笑)。けれど、もっと根本的なところ・・・、変なプライドを脱ぎ捨ててチャレンジしてみたら、人は案外いろんなことができるということを知りました。当時は母を恨みましたが、いまでは突き放してくれたことに感謝しています」
「あなた、家に生活費も入れないで居候するつもり? 人間は生きるために食べなくてはならない。そのために稼がなくてはならないでしょう」
「あなたには、心のどこかに『フランスに行ったんだから』という奢りがあるの。そのプライドを捨てなさい。生活費を入れないのなら、出て行ってもらいます」
ここから、「人生、甘くはないということを実感した、どん底の2年間」が始まります。
街でアンケートをとるアルバイトや、レストランでのサービス、乗馬センターでの受付、設計事務所でのお茶汲みや掃除・・・。生活のために、できることは何でもやりました。
「仕事がない、仕事がない、とよく聞きますが、仕事はあるものです。選ばなければ。やりたい仕事を選んでいる余裕はありませんでした」
生活のための仕事でしたが、どの仕事も後の糧になることに。
「設計事務所では設計図の書き方も覚えたんです。定規に沿って線を引くときに、鉛筆を回しながら引くなんて、いまの仕事と何の関係もないように思えますよね(笑)。けれど、もっと根本的なところ・・・、変なプライドを脱ぎ捨ててチャレンジしてみたら、人は案外いろんなことができるということを知りました。当時は母を恨みましたが、いまでは突き放してくれたことに感謝しています」
フランス再び・・・しかし
僅かながらもお金が入ってくるようになると、佐藤さんに少しずつ思考力が戻ってきます。再び「フランス」への愛も復活し、フランスに関係する仕事の求人をチェックするようになっていました。
銀座の「吉井画廊」に就職したのは、パリにも支店があったから。少しずつ生活の中に「フランス」が戻ってきて、3年後の98年には翻訳のスタージュ(研修)として仏ブルターニュに行くことが叶います。
ところが、渡仏して3カ月後に翻訳会社が倒産。再び、日本への帰国を余儀なくされたのです。
銀座の「吉井画廊」に就職したのは、パリにも支店があったから。少しずつ生活の中に「フランス」が戻ってきて、3年後の98年には翻訳のスタージュ(研修)として仏ブルターニュに行くことが叶います。
ところが、渡仏して3カ月後に翻訳会社が倒産。再び、日本への帰国を余儀なくされたのです。