2人の食のイノベーターによる新たなる食のたくらみ vol.2人口380人の村から世の中を見る。
ピエール・ジャンクー
2020.06.18
text by Chiyo Sagae photographs by Ayumi Shino
トレンドには、大きなうねりと小さなさざなみがあると言われます。
ブームではなく変革と言えるほどの大きなうねりを引き起こした2人のレジェンド。
革新のエネルギーは留まることを知りません。
潮流を巻き起こし続けてたどり着いた境地とは。
ピエール・ジャンクーがつくるパリのレストランから誰もが目を離せなかった。イートイン可能な食品とワインの小売店「クレームリー」はエピスリーブームを巻き起こし、ネオビストロの先駆けの「ラシーヌ」は自然派ワインの一大潮流の引き金に。「ヴィヴァン」と「ヴィヴァン・ターブル」は、ビオ食材の力強い料理とワイン、ナチュラルでレトロ感溢れる店造りのスタイルが瞬く間にパリを席巻した。
だが、人気絶頂の店をあっさりと売り渡し、しばらくするとまたふらりと現れる。店舗拡大やチェーン展開とは無縁の一匹狼、それがピエール・ジャンクーだ。その後もシンプルなイタリアンを取り入れた「ハイマット」、パリに残る数少ない下町19区に忽然と出現したシックなビストロ「アシール」と話題の店を立ち上げながら、2017年夏、突然パリから姿を消した。
人生と自然を重ね合わせて
アルプス南端の山の麓、中世の石造りの街並みが美しく、清らかな湧き水が全戸を潤すフランス南東部ドローム県の小村、シャティヨン・アン・ディワ。人口わずか380人の村の古いカフェを買い取り、自ら改装し、料理もサービスも一人でこなす「カフェ・デ・ザルプ」を営むジャンクーを訪ねたのは昨年の秋。開店から1年を経て、残る改装工事のために数カ月間の予定で店を閉めたばかりの週末だった。
「カフェの料理を家で作るよ」と招かれた自宅でのランチは、近隣のジュラの生チーズを添えたナスのラザニア、トマトとパプリカのコンフィ。「カフェではニョッキかパスタを必ず作る」と、仔牛のラグーソースのパッケリも食卓に並ぶ。ハーブも野菜も、作りたての生チーズも、近郊の農家や生産者が直売するマルシェから。何より、家族のための料理のように肩の力を抜いた一皿一皿がしみじみと味わい深い。
なぜ、この村に一人で住まい、カフェを営むのか。その答えは、ジャンクーの生い立ち、家族の歴史、今後の仕事を考える上での地理的・文化的条件まで様々な要素が複雑に重なり合う。
チューリッヒで生まれ育つが、幼い頃に両親と死別し、在スイスのイタリア人夫婦の養子となり、18歳でパリに出たジャンクー。スイスの山と自然への憧憬、イタリアの食文化の豊かさがいつも彼の根底にあるという。北にアルプスの山々、イタリアとの国境も近く、南に下ればプロヴァンスというこの村を初めて訪れた10数年前、無性に心惹かれ、バカンス用の家を求めた。以来、末娘の生まれ故郷にもなったこの村に、パリのレストランを一つ閉める度に必ず舞い戻っていたそうだ。
いつしか自分に立ち返る故郷になったこの地は、同時に「ビオ渓谷」と呼ばれるフランス随一の自然農業の聖地でもある。有機・無農薬を頑なに守り続ける小生産者が集中し、その割合が国内で最も高い。地方にお決まりの大型スーパー、ファストフード店の参入を最後まで拒んだ地域としても知られる。秋にはジビエや野生のキノコを手にカフェを訪れる老人とカフェの食事やワインと物々交換するという。シャルキュトリーやパン焼きを始めるにもまたとない環境。「お金は儲からない。でも、学びたいことは山ほどある」。
信念と経済の挟間で
この村を基点に生き方を模索している。それが最も正直な答えだろう。もはや基点はパリではない。
「食の意識が高まり、自然派ワインやビオ食材がパリに浸透したのはいいことだ。が、一方で、それがファッションとなり、スノビズムの助長に関わる一面もたくさん見てきた」。大手ビオチェーンの広告塔になる依頼を断ったというジャンクー。自分の信念と経済との両立に悩む彼の姿に少し後ろ髪を引かれながら村を後にした。
冬を迎え、再開するはずだったカフェの扉は開かなかった。村の自宅はそのままに、彼は店を閉めた。ジュネーヴのレストランの店造りを一任され、ジャンクーは目下スイスに滞在中だ。
ピエール・ジャンクー
1970年チューリッヒ生まれ。パリでモデルや「バン・ドゥーシュ」のバーマンを経験。21歳で初めて店を立ち上げた後に、30歳でイタリアの高等ホテル学校で学ぶ。その後、パリで数々の話題店を立ち上げる。
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