「東京湾の豊かさを未来へ伝える」
江戸前海苔店店主 福田武司
2024.09.11
海苔の最高の漁場
「東京の人にも、ここ市川に住む人にさえも知られていないことですが、東京湾の三番瀬は良質な海苔の産地。ぜひいちど三番瀬産の江戸前海苔を食べてみてほしい」「福田海苔店」の代表、福田武司さんはそう話す。
市川とは千葉県市川市のこと。江戸川をはさんで東京都と隣接する首都圏のベッドタウンだ。埋立地に建ち並ぶ高層建築。今では誰もがそんなイメージを思い浮かべる東京湾だが、昔は千葉県の東京湾岸一帯に干潟が広がり、海苔作りは江戸時代から行われていた。市川市の南沖に位置する三番瀬は、東京湾に残る最後の干潟だ。
海苔を"ブランディング”する
福田さんは昭和4(1929)年生まれの父・由松さんが始めた家業を継ぎ、10年前に海苔の生産と販売を始めた。「子供の頃は『海苔には一切関わりたくない』と思ってました(笑)。漁師の子供というだけで、偏見のまなざしに遭いましたから」
1969年生まれの福田さんが子供の頃、全校生徒1200人の小学校に漁師の息子はたったのひとり。高度経済成長による公害病が社会問題化した時代で、大人も教師でさえも「都市部の海=汚染」という根拠のない風評に囚われていた。両親は朝早くから夜遅くまで土日も関係なく働きづめ。「休日に家族で出かける」など夢のまた夢。ネクタイをしたサラリーマンの父親を持つ友達を羨ましく思い過ごした。
旅好きだった福田さんは大学に進学し文学部で地理学を専攻。卒業後は鉄道会社系の旅行会社に就職し、修学旅行や社会科見学を扱う学校専門の部署に配属された。その後、親会社の鉄道会社に転属となり、広告部門で営業、企画業務を担当する。「今となってみればサラリーマン時代の経験が役に立ったな、と思うことがたくさんある。不思議なものです」
家業を継ごう。サラリーマン生活10年目にしてそんなことを思い始めたのも、広告業を経験したことが大きかった。実家で作る海苔。これをもっとPRして多くの人に知ってもらえないだろうか。ほかとは違うものとしてブランディングできる付加価値はないだろうか。「やってみる価値はある、と思ったんです。結局は漁師の息子。お山の大将気質でDNA的に会社員が向いてなかっただけかもしれませんが(笑)」
伝えること、学ぶこと
福田さんがまず着手したのは、海苔の直売だ。通常、加工された海苔は漁協に集まり共販でセリにかけられ問屋が落札したものが流通する。すると船橋の海苔も市川の海苔も全て「千葉県産」となってしまう。直販すれば「行徳産」を打ち出せる。
「子供の頃に『濁っている』といじめの種にされた三番瀬ですが、濁っているのは汽水域(川が海に注ぐ場所)の特徴。栄養素が豊富で、たくさんの生物が生息する証しなんです」一級河川の江戸川が注ぐ三番瀬は、淡水と海水がバランスよく混じり合い、塩分濃度はやや薄め。今も海苔の最高の漁場といわれる。福田さんは海苔のパッケージを自らデザイン。「行徳・三番瀬産」と明記した。
直販は商品に付加価値を付けるだけなく、新たな縁も結んだ。海苔を買いに訪れた浦安市の郷土博物館の学芸員と親しくなり、海苔についての講演を依頼される。そんな出来事に刺激され、40歳の時に大学の通信科に通い学芸員の資格を取得。都内各地の小学校に出向き、東京湾や海苔作りに関する特別授業も行った。
「先生方の望むことと、子供たちが喜ぶこと。その両方を考えてプログラムを考えることは旅行会社時代にさんざん経験したことですから」と笑うが、「教える立場に立つなら」と、東邦大学理学部の大学院に入り、改めて東京湾の生態系について研究した。
開拓者だった父の背を追って
「埋め立て地が増えたことで、水の流れが悪くなり、干潟には牡蠣が増え、海苔の漁場は沖へ沖へと離れてしまっている。このままでは東京湾の海苔が危ない」と、福田さんは警鐘を鳴らす。環境の変化に加え、後継者不足の問題もある。昭和30年代の最盛期には市川市だけで150軒いた海苔漁師は、今では4軒に減った。
「今やっていることを続けているだけではだめ。『市川に行ったら海苔を買わなきゃ』と思ってもらえるようにしていかないと」
行政に働きかけ、繁忙期でも快く取材に応じながら、次の策を考え中だ。3月は海苔摘みの最後の時期。今日も小舟で沖へ出て、網の下に潜り海苔を摘む。通称「潜水艦」と呼ばれるこの船は、海苔漁に一生を捧げた亡き父・由松さんが開発したもの。収穫の効率を格段に上げ、海苔漁に革命をもたらした。父から受け継いだのは「お山の大将気質」ではなく不屈の開拓者精神。福田さんは三番瀬の海苔のため奔走し続ける。
◎福田海苔店
www.fukudanoriten.ecweb.jp
(雑誌『料理通信』2014年4月号掲載)
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