佐々木章太さん(ささき・しょうた) ジビエ肉狩猟&流通&加工業
第2話 「自分に負荷をかける」(全5話)
2016.03.01
夢はアイスホッケー選手
佐々木さんは、兄と妹がいる3人兄弟。兄とともにプロアイスホッケー選手を目指すスポーツ少年でした。
両親はともに飲食店を経営。とりわけ、祖母・母が経営するカフェレストラン「繪麗(エレ)」は、帯広市内では知らない人がいないほどの有名店。
「店を潰すわけにはいかない。誰かが継がなきゃいけないとわかってはいたけれど、大変なところを見ていたので、どちらかというと料理の世界には入りたくなかった」と振り返ります。
体育大学を見据え、高校にスポーツ推薦入学。しかし入学後、2つ上の兄は一足早く「アイスホッケーのプロ選手になる」と宣言。妹さんにも店を継ぐ気持ちはありませんでした。
「兄貴よりも、僕のほうが選手として有名だったはずなのに(笑)、なんだよという感じ。しぶしぶもいいところで進路変更したんです」
高校2年の春のことでした。
両親はともに飲食店を経営。とりわけ、祖母・母が経営するカフェレストラン「繪麗(エレ)」は、帯広市内では知らない人がいないほどの有名店。
「店を潰すわけにはいかない。誰かが継がなきゃいけないとわかってはいたけれど、大変なところを見ていたので、どちらかというと料理の世界には入りたくなかった」と振り返ります。
体育大学を見据え、高校にスポーツ推薦入学。しかし入学後、2つ上の兄は一足早く「アイスホッケーのプロ選手になる」と宣言。妹さんにも店を継ぐ気持ちはありませんでした。
「兄貴よりも、僕のほうが選手として有名だったはずなのに(笑)、なんだよという感じ。しぶしぶもいいところで進路変更したんです」
高校2年の春のことでした。
行くなら、一番きつい調理場へ。
調理専門学校を経て星野リゾートへ就職。料理人人生がスタートしました。
「この頃には実家を継ごうと決めていたので、実家を早く助けたい、早く楽にさせてあげたいと思っていました。だから、人が10年かかって習得することを、僕は5年で習得しようと決意して、ギラギラとした毎日を過ごしていました」
仕事が休みの日には、軽井沢のフレンチ「パッション」へ無償で手伝いに。常に燃えるような情熱で料理に向き合う佐々木さんにとって、同僚や先輩たちのキャリアプランは、どこかもどかしく写ったこともありました。
その姿を見ていたパッションのシェフは、手伝いから2年が過ぎた頃、「上を目指すのなら、東京に行きなさい」と伝えたそうです。彼は、うなずいて、こう答えます。
「どうせ行くなら、日本で一番きつい調理場を紹介して下さい」
厳しいほうが成長は早い。負荷をかけたほうが料理の“筋力”が付くだろう。
紹介されたのは、東京の老舗ビストロ「ビストロ・ド・ラ・シテ」でした。
「フランス修業を想定して店に入りました。1年から1年半、一通り学んだらフランスに行きなさいと、シテの関根進社長から言っていただいたんです」
濃縮した時間を過ごそうと決意しての上京。アイスホッケーで鍛えた体と心は、厳しさに耐える自信もありました。しかし、「シテでの日々は、予想を軽く上回るくらい、つらかった。精神的に参るんじゃないかって、いつもギリギリのところにいました。その分、大人になりましたし、料理の技術も上げられたと思います」
1年後には前菜メニューを任されるほどに成長し、いよいよ渡仏への許可も下りました。
「この頃には実家を継ごうと決めていたので、実家を早く助けたい、早く楽にさせてあげたいと思っていました。だから、人が10年かかって習得することを、僕は5年で習得しようと決意して、ギラギラとした毎日を過ごしていました」
仕事が休みの日には、軽井沢のフレンチ「パッション」へ無償で手伝いに。常に燃えるような情熱で料理に向き合う佐々木さんにとって、同僚や先輩たちのキャリアプランは、どこかもどかしく写ったこともありました。
その姿を見ていたパッションのシェフは、手伝いから2年が過ぎた頃、「上を目指すのなら、東京に行きなさい」と伝えたそうです。彼は、うなずいて、こう答えます。
「どうせ行くなら、日本で一番きつい調理場を紹介して下さい」
厳しいほうが成長は早い。負荷をかけたほうが料理の“筋力”が付くだろう。
紹介されたのは、東京の老舗ビストロ「ビストロ・ド・ラ・シテ」でした。
「フランス修業を想定して店に入りました。1年から1年半、一通り学んだらフランスに行きなさいと、シテの関根進社長から言っていただいたんです」
濃縮した時間を過ごそうと決意しての上京。アイスホッケーで鍛えた体と心は、厳しさに耐える自信もありました。しかし、「シテでの日々は、予想を軽く上回るくらい、つらかった。精神的に参るんじゃないかって、いつもギリギリのところにいました。その分、大人になりましたし、料理の技術も上げられたと思います」
1年後には前菜メニューを任されるほどに成長し、いよいよ渡仏への許可も下りました。
誰かのせいにするな
実家のカフェレストランの経営が良くない、との知らせが入ったのは、渡仏への最終準備も終わろうとしていた頃。田舎ならではの人間関係で、知人からの雇用依頼を断れず、店には売上に見合わないほど大勢のスタッフがいたのでした。
「祖母から母に経営を引き継ぐタイミングで、経営方針も刷新して、身内で固めたいと。戻ってきてくれと言われて、どうしたらいいかわからなくなったんです。精神的にも肉体的にも限界に近い状態で修業してきて、やっとフランスに行けるタイミングでしたから……」
このとき、佐々木さんのぐらついた心に喝を入れたのは、関根社長の言葉。
「実家に帰るのならば、自分の中でしっかりと決断をしなさい。そして最後の日まで手を抜かず頑張りなさい。やりきらないと、これから何かでつまずいたとき、その環境を家族や誰かのせいにしてしまうから」
「そんなふうにおっしゃったんです。目が覚めました。フランスに行けばどうとか、北海道に戻ればダメとか、そういう話ではなくて、人のせいにしたとたんに自分の成長が止まるんだ、ということに気づかせてくださいました。人生の中でも、これは大きなターニングポイントでした」
ならば、今自分ができること、求められていることを、自ら選んでしよう。
残された日を「ビストロ・ド・ラ・シテ」で全力投球した佐々木さんは、こうして生まれ故郷の北海道・帯広に戻ったのでした。
(次の記事へ)
「祖母から母に経営を引き継ぐタイミングで、経営方針も刷新して、身内で固めたいと。戻ってきてくれと言われて、どうしたらいいかわからなくなったんです。精神的にも肉体的にも限界に近い状態で修業してきて、やっとフランスに行けるタイミングでしたから……」
このとき、佐々木さんのぐらついた心に喝を入れたのは、関根社長の言葉。
「実家に帰るのならば、自分の中でしっかりと決断をしなさい。そして最後の日まで手を抜かず頑張りなさい。やりきらないと、これから何かでつまずいたとき、その環境を家族や誰かのせいにしてしまうから」
「そんなふうにおっしゃったんです。目が覚めました。フランスに行けばどうとか、北海道に戻ればダメとか、そういう話ではなくて、人のせいにしたとたんに自分の成長が止まるんだ、ということに気づかせてくださいました。人生の中でも、これは大きなターニングポイントでした」
ならば、今自分ができること、求められていることを、自ら選んでしよう。
残された日を「ビストロ・ド・ラ・シテ」で全力投球した佐々木さんは、こうして生まれ故郷の北海道・帯広に戻ったのでした。
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