幅允孝のウイスキー対談
オールドパー紳士録 Vol.5
星原隆志
2017.02.06
text by Yoshitaka Haba/photographs by Daisuke Akita
南青山に事務所があり、その西側に家がある者にとって銀座は日常ではない。美味しいものを食べ、飲もうと思えば表参道や西麻布や麻布十番で十分こと足りる。けれど、銀座という街にはいまだどこか特別な匂いを感じるのも確かだ。東京全体が平坦になり晴れの場所が少なくなる中、銀座の今はどう動いているのだろうか?
銀座という街は、明治、大正、昭和の時代を通じていつもハレの場所だった。誰よりも早く洋装を取り入れた紳士淑女が、また別の時代にはモボモガ(モダンボーイ&モダンガール)達が集い、そこでの食事や会話を愉しんだ。銀座には常に新しい風が吹き、洋食や珈琲、さらにはお酒の文化が華ひらき根付いたことも間違いない。もちろん、オールドパーなどブレンディッドのスコッチウイスキーを嗜む文化もこの街から発信され、それが少しずつ日本全国へと浸透していったのだった。
いつも敬語で話していた、大きくて厳しい父の存在
そこで訪れたのが並木通りにある「西洋料理南蛮銀圓亭」とバー「Namban1934」である。両店を営む(株)カリオカ代表取締役の星原隆志は、1933年から続く老舗を切り盛りする41歳。幼少の頃から父が営む銀座の現場を見聞きしてきた生粋の銀座男といってもよい。
と、編集部からは聞いていたので、どんな強面の方がやって来るのかと待っていたら、待ち合わせの「Namban1934」に現れたのはお辞儀が丁寧で背筋が伸びた物腰の柔らかい好人物だった。ひと安心である。
早速、星原に幼少期の銀座での思い出を語ってもらう。家族で食事をした時はだいたいフルーツパーラーに寄り「プリン・ア・ラ・モード」を食べるのが定番だったことを聞くと、周囲の編集スタッフからは「おーっ」と感嘆の声があがる。けれど、昭和3年に生まれ48歳年齢差があった父の話になると彼は少し言葉を選び、「父はとても厳しい人で、いつも敬語で話していました」と少し笑いながらいった。
当時、(株)カリオカはバー、カフェ、そして洋食屋などの飲食店を経営していたが、息子に継がせるという雰囲気は全くなかったという。一人っ子だったので「いずれは」という意識が自分の中にはあったと星原は語るが、小さな少年に父の背中は大き過ぎたというのが正直なところなのかもしれない。
並木通りへの想い
昭和60年、並木通りを文化とロマンある通りにという思いの元、「銀座並木通り連合美化会」が設立(現在は名称変更「銀座西並木通り会」 http://www.ginza-namikidori-w.jp/)。星原の父、重光は、事業委員長として、歩道の舗装、街路灯、街路樹、美化清掃など、町会そして諸官庁と協力し、銀座並木通りのため熱心に活動したという。歩道は、凹凸のある御影石を使用してハイヒールでも雨の日に滑らないように。また、電話ボックスは、並木通りの中心的な存在の一つである資生堂の協力で、12時と18時に香水を出す工夫など。重光は並木通りを歩いて愉しい通りにするために心血を注いだようだ。
原点は何か? を鑑みることからはじめた
2008年に重光が急逝し、予期せぬ形で星原は家業を継ぐことになる。星原が最初にしたことは、昭和8年創業当時の資料を読み返し、父の言葉を振り返りながら「創業の原点とは何か?」を鑑みること。そこから三代目の仕事は積み上げられていくことになった。
例えば「南蛮」という名前には、異国情緒に憧れる当時の空気感が込められているし、会社名の「カリオカ」も経営していた珈琲店の豆がブラジル産のものだったことが由来している。舶来の西洋文化、つまり最先端の異国文化を銀座で紹介してきた歴史が、自分たちのアイデンティティだと星原は気付いたのだ。
「洋食」の定義は難しい、だからこそ面白い
現在はグローバル化して異国の味や文化を身近に楽しむことができるようになった。その一方で、先人が日本に紹介した西洋料理は日本独自のスタイル「洋食」として昇華し、踏み固められ、海外の人たちに誇れる食になっている。じつのところ「洋食」の定義を外国文化圏の人に説明するのは難しく、だからこそ面白いと星原はいう。「異国の食文化と慣れ親しんだ和食文化の間」にある、「ごはんに合う西洋料理」と彼は説明してくれたが、「確かに!」と妙に納得してしまった。
時間に磨かれた洗練の逸品たち
上階にある「西洋料理南蛮銀圓亭」からバー「Namban1934」にカニクリームコロッケを運んでもらう。これは、通常営業中も可能なサービスでお酒を主体に飲みながら少し食べたい人にとっては最高の贅沢だろう。このコロッケは舌触りが滑らかなパウダー状の細かいパン粉を使用し、ベシャメルソースも職人の手作り。最後はサラシ布を使用して二人がかりで丁寧に絞る手間が、口に入れた瞬間から広がってくる。
また、「デミグラスソースは銀圓亭で最も食べてもらいたいソース」という星原の言葉を聞き、牛タンシチューもあわせてオーダー。馴染みの精肉店に厳選した部位の良いところを分けてもらい、じっくりと肉の滋味を染み出させた名物は、真四角の皿へ綺麗に盛り付けられていた。
続けてやってくるのは、特製ビーフヒレカツサンド。「バーで空腹を感じた時のおつまみに」という星原のわがままで作ったそれは、とにかくパンに挟み込まれた肉の火の通り具合が、洋食屋のそれで美味。そしてオールドパーの12年に比重の違う水を注ぎ、あえてステアせずに提供するフロートスタイルでも頂いたのだが、特製ビーフカツサンドとの相性は絶妙。長年連れ添ったパートナーのようにしっくり補完し合っている。
星原にとってオールドパーは、紳士が嗜む上質なお酒というイメージがあるそうだ。一時期はシングルモルトを好んで飲んでいた頃もあったが、まろやかなブレンデッドウイスキーに目覚めたあと、この味の本当の美味しさに気がついたという。ロックでも水やソーダで割っても、ストレートでも味わい深く柔らかいオールドパー。時間がゆるやかに流れ、少しずつ仕事の経験を積み重ねていくうちに、だんだんわかってくる味がこれかもしれないと星原はいう。
バー「Namban1934」は2016年の11月1日にリニューアルオープンを果たしたのだが、真新しすぎない内装がリビングのようで心地よい。先代のつくったお店の世界観をなるべく壊さないようにし、欅の一枚板のカウンターも健在。床も磨き直して再度塗装し、ステンドグラスも一度すべてばらし鉛で接ぎ直し残した。新装のバーというと、どうしてもしゅっとし過ぎたモダンな空間になりがちだが、ここは先人の残した痕跡に接ぎ木をし、丁寧に育てていく意思を感じる。ずっと使っている調度品も南蛮的で和洋の折衷を感じさせるものが多いのだが、新しくなった「Namban1934」は時間の折衷という方法を用いて、銀座にあって驚くほど心地よい空間を実現したといえよう。
銀座は昔から「正装に身を飾った紳士・淑女が行き交う」街であり、「本物でなければ足を踏み入れてはいけない」という格もあった。だが、話を聞いていると、銀座にだけ流れるローカルな空気を感じることができるようになった。ここからは星原の友人で、銀座の若手経営者の会で一緒に活動する日東物産株式会社代表取締役の竹田大作さん(日東コーナーという素敵な洋食屋も銀座で営んでいる)にも加わってもらい若旦那たちが考える銀座について話をしてもらった。
銀座通りはファストファッションの店も増え、大規模な開発も続いている。実際、銀座で個人店を持つ人も年々減ってきているらしい。しかし、銀座という厳しくも楽しい場所で商売を続けている者たちの連帯感は、年々増しているのだと二人は声を揃える。道で会えば親しく挨拶をするし、厳しい先輩たちは敢えての苦言を後輩たちにぶつける。人との絆を築いていくのが商売だとすれば、こんなにタフで、こんなに器の大きな商売の街は世界中探してもどこにもないと竹田は力説する。同じ銀座でずっと商売をすることで生まれる互いに切磋琢磨し支え合う心は強固になっているのだ。大型商業施設が増え、より一層変化が激しくなってきている時代に、銀座の根っこはより強くなってきている。個人経営、つまり、ひとつの屋号で生きるか死ぬかの勝負をしている人たちの繋がりには独特の熱があり、それは「銀座村」とも呼べる親密さだと思えた。
グローバルな世界に対峙する、ローカルな銀座のこれからが愉しみである。
老舗の看板を継承する重圧は横に置き、
まっすぐに「洋食」と「バー」というジャンルの未来を見つめる星原氏の姿勢に
銀座は人の魅力が支える街だと改めて思えてきます。
ニッポンブランドを担う銀座の若旦那のみなさん、素敵です。
次は何処の紳士との出会いが待ち受けているのか、お楽しみに。