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PEOPLE / 料理人・パン職人・菓子職人

倫理と美学に境界線はない。 人間らしくどうあるべきか、一皿に込めた使命

「オステリア・フランチェスカーナ」マッシモ・ボットゥーラ

2025.11.27

「不完全さへの賛辞」「日曜日の家族」「謙虚さの象徴」。マッシモ・ボットゥーラの代表的な料理には、いずれも氏の生き方や倫理観が映し出される。
2度にわたり「世界のベストレストラン50」で首位についた、伊・モデナ「オステリア・フランチェスカーナ」。オーナーシェフとして厨房に立ちながら、創作活動に比例するように社会的活動の場を増やしてきた。伝統技術の承継、貧困・孤立の解消、地域と環境への責任・・・
成功した料理人に課される使命を、果たして重いと感じることはないのだろうか。
2025年9月、大阪・関西万博開催中、イベントのために来日したボットゥーラ本人に聞いた。

目次







子どものように目を開く

マッシモ・ボットゥーラの代表作の一つ、「Oops! I Dropped the Lemon Tart(おっと!レモンタルトを落としちゃった)」は、まさに偶然から生まれた。2011年、日本人の当時のパティシエ、紺藤敬彦(通称Taka)が完璧に仕上げたレモンタルトを誤って落としてしまった。悲嘆に暮れるTakaに、ボットゥーラはこう言ったという。「Taka、これはとても美しい。わからないか? これこそ完璧だ」

ホテルニューオータニ大阪で提供されたコースの1皿。「おっと!レモンタルトを落としちゃった」。レモングラスのジェラート、ケイパーの塩漬け、オレガノ、大阪「やまつ辻田」の唐辛子オイルを合わせて。「僕のような料理人は、完璧を目指していると思われがちですが、完璧を上回る不完全さがあるのです」

割れたタルト、飛び散ったクリーム、砕けたメレンゲ。その「失敗」を、ボットゥーラは芸術に変えた。「私は完璧さへの執着や、頑固なクラストに囲まれた装飾的なクリームが嫌いだった。だから意図的にタルトを砕いたんだ」。この料理は不完全さの中にこそ美が宿るという、ボットゥーラらしい自由度の高い詩的な表現の一つである。

象徴的といえるもう一皿は「The Crunchy Part of the Lasagna(ラザニアの端っこのカリカリ部分)」だ。幼少期、日曜日の昼、家族の食卓で兄弟たちとラザニアの焦げた端っこを奪い合った記憶から生まれている。

大好きな祖母・アンチェッラが大きなトレイで焼くラザニアの”カリカリ”争奪戦。日曜日の記憶を表現した「ラザニアの端っこのカリカリ部分」。大阪では、ラザニアの中に詰めたラグーは、メインの肉料理の端肉を活用した。

「キッチンは私にとって守られた場所であり、力の湧く、もっとも安全な居場所でした」。母や祖母、叔母たちと過ごしたキッチンでの時間が、料理人としての原点だ。

40年以上前、料理人になることは、決して名誉あるキャリア選択ではなかった。医師、エンジニア、会計士と進んだ兄たちに対して、末弟であるボットゥーラに父親は弁護士の道を望んだという。
そんな父親を母親は説得し、こう言った。「マッシモにはやりたいことをやらせてください。彼にはとても多くのエネルギーがあって、それを好きなことに向けないと私たちに問題が起きてしまいますから」。ボットゥーラの漲るエネルギーは今も厨房から生まれている。

彼が目指しているのは、大人たちを再び、子どもにすること。「ラファエロのような技術をもち、子どものように描く」。ピカソが生涯かけてそれを望んだように、驚き、喜び、自意識のない、曇りのない目を見開いた状態にすること。それは料理を通じて、人々の記憶と感情に触れようとするボットゥーラならではのアプローチといえる。


コースの幕開けを飾った「トリュフになりたいジャガイモ」。「僕はジャガイモです。ジャガイモは質素な食材ですが、腕の良い人の手にかかれば、特別なものになります」。男爵いもをトリュフが香るアミューズに。
「ビューティフル・サイケデリック 炭火で焼き上げた黒毛和牛、絵画のように鮮やかな彩りで」英国アーティスト、ダミアン・ハーストのスピンペイント作品へのオマージュ。黒毛和牛は炭火を使わずに野菜の灰を肉の表面にブラッシングして低温調理、炭火のような味わいに。赤ビーツや熟成バルサミコ酢のソースは「バケツで絵の具をかけるように描きました」

責任は共同体の延長線上にある

「社会的プロジェクトは、私が30〜35年経験を積んだ後に始まりました」。それは突然降ってきた義務ではなく、料理人としてキャリアを積む中で生まれた自然な流れだったという。

「インクルーシブ教育において長い歴史を持つモデナという社会性の高い街で育ちました。子どもの頃から『共にいることで人は強くなる』と繰り返し教わってきたんです」。ボットゥーラにとって、責任は共同体の延長線上にある。

「料理人にとって最も重要な要素は、文化、知識、意識、責任感です」。繰り返し強調するのは、この連鎖だ。「文化や知識の種がある。意識を開くと、意味がやってくる。意識と責任感をつなぐ橋を築きなさい。そして、その橋はとても短い」。文化と知識を持つ者には自然と意識が芽生え、意識を持つ者には責任感が伴う。

もちろんプロジェクトは一人で背負っているわけではない。「一人では私はマッシモ・ボットゥーラに過ぎません」。彼のチームはオステリア・フランチェスカーナ、カーサ・マリア・ルイージャ、カヴァリーノ、グッチ・オステリアなど、複数の拠点に広がっている。モデナだけでも、見習いを含めて従業員約240人が「フランチェスカーナの家族」と呼ばれる共同体として働いている。

「常に心がけてきたのは、ゆっくりと物事を築き、大きな樫の木のようにしっかりと根を張ることです。深い根を張ることで、成長したときに大きな家族ができる」

レフェットリオはミラノ万博を機に、ボットゥーラと妻ララ・ギルモアが設立した非営利団体「Food for Soul」の活動から生まれた。現在、世界13カ所にあり、この10年間でシェフやボランティア延べ14万人が参加している。画像はブラジルのNGO Gastromotiva(ガストロモティバ)とのパートナーシップにより設立されたレフェットリオ。photographs by AngeloDalBo

生活困窮者への食堂「Referettorio(レフェットリオ)」で知られるボットゥーラたちの社会的プロジェクトは、高齢の女性たちと自閉症スペクトラム障がいのある若者たちが働くトルテッリーニの工房「Tortellante(トルテッランテ)」、移民女性たちにフランチェスカーナファミリー のシェフ、ジェシカ・ロスヴァルが主導する 職業訓練プログラム「Roots(ルーツ)」へと続いている。

2015年に始まったレフェットリオは今や世界9カ国、13カ所に広がり、たった7人から始まったトルテッランテには、現在182人の高齢女性と52家族が参加している。「トルテッランテは、社会で最も孤立している2つのグループ、家に一人残されたおばあちゃんと若者たちをつなげて社会の中心に据え、伝統を守りながら食べ物を届けています」

作業の様子
トルテッランテでは交代制でトルテッリーニを製造し、食材店やフランチェスカーナファミリー のレストランに供給する。

移民女性、特にシングルマザーを対象としたルーツでは、調理技術の履修後、レストランで6カ月間の実習を行い、参加者らは自分の国籍や文化的背景をテーマに、自身のアイデンティティと結びついたメニューを提供する。女性たちの人生の物語をレストランという場で披露させるのである。「ここで学んだ97%の女性が就職を果たし、社会に溶け込んでいます」


日本、そして大阪への深い敬意

「私は日本を溺愛しています」。大阪の会場でボットゥーラはそう言った。「私のレストランには25年以上前から日本人の料理人が働いていますが、素材に対するマニアックなまでのリスペクトが際立っているのが日本の料理人です」

フランチェスカーナには研修生からスタッフまで、複数の日本人シェフが長年勤務している。紺藤敬彦は20年間ボットゥーラと共に働き、現在はフィレンツェのオステリア・グッチでシェフを務める。6年間モデナで働いた後、現在は東京のグッチ・オステリアのスーシェフを務める日本人もいる。「日本の学生の職業訓練は、世界で最高クラスのものの一つです」


大阪には初めての訪問だったというボットゥーラ。日本人の繊細な味覚に適うようイタリアで完璧なレシピを想定して来日したが、「この街のユーモア、食文化に感激しました。そういったものをメニューに反映したいと、到着してからレシピを練り直したのです」

「グラニャーノから大阪へ」と名づけられた赤ウニの“海のカルボナーラ”は、ボットゥーラが来日後に出会った瀬戸内のウニをもとに、日本の海洋資源への敬意を込めて、イタリアの代名詞であるパスタ料理を大阪流に仕上げている。

アーリオ・オーリオ・エ・ペペロンチーノを作り、軽く燻製して凝縮させたあさりのだしをウニと合わせて、カルボナーラの卵のソースのように、クリーミーなソースに仕立てる。「予定していたトマト×バジルのパスタから、大阪の魚介を生かした即興の一皿に切り替えました」

「グラニャーノから大阪へ」。卵やペコリーノを使わず、アサリの旨味をベースに、ウニそのものをクリーミーな"海のカルボナーラ"ソースとして昇華。天下の台所の大阪とイタリアのフュージョン。

「レシピは常に進化しており、固定されたものはありません。ジャズのセッションのように変わりゆくものです」。伝統への深い敬意を持ちながらも、そこに留まらない。「常に変化し続ける伝統があるのです」


倫理と美学に境界線はない

素材との向き合い方については、ユーモアを交えながらこう表現した。
「ここに泉州タマネギがあります。大きいですね。手に取って、その姿を注意深く観察し、香りをかぎます。 そして、あなたは私のために何ができるか? あなたのために私に何ができるか? と問いかけます。そうして、食材を敬う料理人としての道が始まるのです」。これが、倫理と美学を同じレベルで考えるという彼の料理の在り方だという。

ここでいう「倫理」とは、食材への敬意、生産者との公正な関係、環境への配慮、料理人としての社会的責任全般を意味している。これを皿の上の美しさと同じレベルで表現する。ボットゥーラにとって倫理と美学は切り離されたものではない。料理という表現手段を通じて、美しさと倫理を同時に追求する。成功した後に訪れるのは、特権ではなく責任なのである。

使命は重いか、という問いの答えは明確だ。それは、料理人が育まれた文化と知識が、自然に導く意識と責任。そしてそれは一人で背負うのではなく、家族として、深く根を張った樫の木のように、共に成長していくもの。

日本にもレフェットリオはできますか?と尋ねると、「本気で求めてくださる方がいれば、私はどこへでも行きますよ」と答えた。

家族との記憶をたぐり寄せ、不完全さを賛美し、伝統に謙虚であること。一皿に込められているのは、料理人としての美学と人間としての倫理観だ。
マッシモ・ボットゥーラは、料理という芸術を通じて、世界に問いかけている。美しさとは何か、責任とは何か、そして人間らしく生きるとはどういうことか、と。


◎ Osteria Francescana
Via Stella, 22, 41121 Modena MO, Italy
☎ +39 059 223912
https://www.osteriafrancescana.it/

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