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PEOPLE / 料理人・パン職人・菓子職人

最愛のパンと野菜から始まるカフェづくり。

東京・鳥越「torigoeT」小川呂美

2022.07.14

text by Sawako Kimijima / photographs by Ayumi Okubo

東京台東区鳥越神社横の小さなビル1階にあるカフェ「torigoeT(トリゴエティー)」。“東京のブルックリン”と呼ばれるエリアの一角で、店主の小川呂美(ろみ)さんが目指したのはサードウェーブスタイルではなく、パリのカフェだった。
ちなみに呂美さん的パリカフェ3条件とは、1.おいしい料理が食べられる、2.おじいちゃんやおばあちゃんも集える大人の社交場、3.地域に根付いている。
「専業主婦になるはずだったのに、気付いたらカフェを営んでいたのは、人に恵まれたから。お店を構成しているものはみな周囲の人々の紹介なんですよ」。そのしなやかさが、今の時代、まぶしく映る。


木村さんのパンと長谷川さんの野菜。

自分のレストランを開こうとした時、最初に決まっていたのが椅子だった。というシェフがいる。彼はその椅子に合わせて内装をインテリアデザイナーに依頼した。椅子は居心地を左右する。レストランにおいて料理の味と同じくらい大事だ、とそのシェフは考えた。“椅子から始まる店づくり”というアプローチである。
5年前、小川呂美さんがカフェを開くにあたって、真っ先に思い描いたのは木村昌之さんのパンだった。“パンから始まる店づくり”だ。
「野望も野心もないけれど、木村さんのパンだけは絶対に譲れなかった」――呂美さんは恥ずかしそうに、でも力強く語る。

木村昌之さんとは、長野県上田市でパンを焼くブーランジェだ。2016年まで東京・吉祥寺「ダンディゾン」のシェフを務め、2017年に長野県上田市に移住。北欧の引き継ぎ型社会をお手本にライフスタイルを提案する会社「haluta(ハルタ)」でパン部門を立ち上げた。地元の農家と緊密な関係を築き、小麦やライ麦の畑での営みを体感しながら作るそのパンは、穀物の息吹を湛えるかのような潤いを持つ。現在は独立し、「木村製パン」として完全注文制でパンを焼く。

呂美さんは、「torigoeT」をオープンするまで、西日暮里にあるブーランジュリー「イアナック」で働いていた。
「ルノートルやメゾン・カイザーでフランスパンの修業を積んだシェフとフランス料理店出身のマダムが営むその店では、パンはもちろん、キッシュやタルティーヌに使う具材をフレンチの技術で仕込んでいました。12年間働く中で、パンも料理もしっかり学ばせていただいた」
でありながら、いや、だからこそかもしれない、自分の店を開くのであれば木村さんのパン以外の選択肢はあり得なかった。

呂美さんは、木村さんが「ダンディゾン」のシェフ時代に、その存在を知り、パンの味わいに魅了された。

生地にストレスをかけないように作る木村さんのパンは、無理な成形をしないから、ゆったりなだらかなフォルム。

「呂美さんの世界観を共有して、同化するようにパンを焼いています」と木村昌之さんは語る。

一方、パンに匹敵するくらい重要だけれど、誰に頼めばいいのかわからず困り果てていたのが野菜だったという。
「きれいでおいしい有機野菜を探していたんです」
相談した友人から教えられた生産者の野菜を一通り取り寄せてみて、鮮烈な印象を受けたのが長野県佐久市「長谷川治療院農業部」の長谷川純恵さんの野菜。生産者によっては泥だらけや虫食いのまま送られてくることも多い中で、「一筆で書いたお習字のように美しかった」
有機だから虫食いでいいとは考えない。手塩にかけて育てたなら、手塩にかけて届けよう。そんな思いがひと目で伝わる野菜の姿に、長谷川さんの研ぎ澄まされた感性と何事もゆるがせにしない生き方を感じ取った。

長谷川純恵さんの野菜は、各々の特性を生かすように調理されて、カウンターに並ぶ。

皿の中で野菜がそれぞれの表情を引き立て合う。手前はカカオニブ入りのパンとレバーペースト。


都市生活の理想形、ビル内コミュニティ。

それにしても、呂美さんはなぜ、カフェを開こうと思ったのか?

「パンを買って終わりにとどまらない、おいしい食べ方の提案ができないか、と考え始めていたところ、このビルの借り主であるデザイン会社、Riddle Design Bank(リドルデザインバンク)社長の塚本太朗さんから、『1階が空いたから、カフェをやらないか』と声を掛けられたんです」
12年間お世話になった「イアナック」のシェフにはどう切り出そうか、数カ月悩んだ末に決断。「お陰様でシェフにも応援していただいています」

このビルに入居するのは、リドルデザインバンクの塚本さんの知り合いばかり。まず4階がリドルデザインバンクとデザインスタジオ「Lille og Stor Studio」、3階には北欧からインテリア雑貨を輸入する「FORSLAG DESIGN」とシェアオフィス、2階が湯布院みやげ「ジャズとようかん」のサロン兼ギャラリー、そして1階に「torigoeT」

業種が異なる個人事業主同士で、利害関係なく助け合う。「torigoeT」のランチョンマットやラッピング、カードなどグラフィックのデザインはリドルデザインバンクの三輪成吾さんが手掛け、店で流す音楽は、ジャズとようかん代表の谷川義行さんがプレイリストを作成した。お昼になると、みんな「torigoeT」でランチを食べる。
「この間はビルのみんなで茅ヶ崎へ援農に行ったんですよ」

そんな関係性を呂美さんは「自立した共同体」と表現する。シェアハウスのビル版とも言えるし、昔ながらの下町のご近所付き合いのようでもあり、都市生活者にとって理想形と言えるコミュニティが成立していて、うらやましい。
近隣にはデザイナーやアーティストがアトリエを構え、ギャラリーも多い。
「心惹かれていた器の作家さん、小玉陶器の小玉清美さんが偶然にも目の前にアトリエを構えていたんです。店のテーブルウェアとして使いつつ、ショーケースに並べて販売もしています。売れて品切れになると、『焼いてください』とお願いに行く。すると、焼いて持って来てくれる(笑)」

下町らしい味わいのあるビルの雰囲気を残しながら、いまどきの魅力溢れるファサード。

店内の空間は2つに分かれ、手前に料理のショーケースと食材や雑貨が並ぶ棚がある。

奥はテーブル席。余白の多いゆったり空間でイベントや展示にも使われる。

ビル4階の「リドルデザインバンク」三輪成吾さんが手掛けたランチョンマットやカード。

ディスプレイケースには、小玉陶器の小玉清美さんの作品を飾って販売している。


フランス好きな江戸っ子一家。

呂美さんは店以外の活動も幅広い。「gather(ギャザー)」の名前でイベントやパーティのケータリング、食にまつわるプロデュースやフードコーディネート、レシピ提供など、様々な依頼を受けている。
「自分も周りも、私は専業主婦になるんだと思っていたから、みんな驚いている。どうしてこうなったのって(笑)」

下町生まれの下町育ち。チャキチャキの江戸っ子だ。
「この辺りの人たちは、着る物も食べ物もきちんと作られたものが好き。ここでカフェを営むのって、ちょっぴり緊張する部分もあるんですよ」
暮らしの術の素養がある彼らに下手なものは出せないからだ。
母親、祖母ともに、料理と縫物ができた。縫物は和裁と洋裁の両方をこなした。呂美さんも、和裁、洋裁、生け花と、昔風の言い方をすれば花嫁修業は一通りやった。
「近所の人たちも同様だから、特別なこととも思わなかった」

大学を卒業してすぐに結婚。予定通り専業主婦になったが、ウェディングドレスを誂えてくれたアトリエから「呂美ちゃん、縫えるのなら、手伝って」と頼まれて手伝い始める。「お菓子を焼けるなら、焼いてくれる?」と言われて、お菓子も焼き始めた。
「縫物も料理も同じくらい好き。でも、仕事にしようなんて夢にも思っていなかった。みんなに喜んでもらえるのがうれしくて楽しくて一生懸命やっているうちに、気付いたら仕事になっていた」

呂美さんが現在のスタイルを築いていった要因にはもうひとつ、江戸っ子であると同時にフランス好きの家系というのがある。
「父親がフランス文学好きで、3歳の頃から毎週土曜日はフランス料理店で食事をしていました」
パリにはいろんな縁があり、呂美さん自身がパリへ通った。
「イアナック」で働くきっかけも、パリと同じくらいおいしいパン屋さんで働きたいとの思いから。
「親から与えられた食の経験の大切さを噛み締めては感謝しています。そして、イアナックで働いたお陰で、商品としてお客様に提供していく厳しさをゼロから学びましたね」。

「お気に入りのレストランは、銀座のカーエム」というバリバリの正統派。

アッシ・パルマンティエ、鶏のバロティーヌ、ウフ・マヨなど、フレンチの定番が並ぶ。すべてテイクアウト可。


本人の幸せが周りを幸せにする。

木村さんにパンを、長谷川さんには野菜の卸しを依頼した時、木村さんも長谷川さんもわざわざ呂美さんに会いに東京へやってきたという。生産者にとって飲食店は食べ手への窓口。扱い方次第で、食材に込めた思いが生かされたり生かされなかったりする。
本人に会った木村さんや長谷川さんが、なぜ、呂美さんに食材を送ろうと決めたのか? 勝手な想像ではあるけれど、それは自分の価値観と審美眼を静かに貫く彼女のピュアさに突き動かされたからではないか、と思うのだ。

木村さんには、毎週、献立や料理に使うスパイスまで細かに伝えて、旬の料理に合ったパンを作ってもらう。メニューが決まらない時はその旨を伝え、木村さんから送られてくるパンに合わせて料理を考える。「このパンにはぜひローズマリーのソースを合わせてください」といったサジェスチョンが木村さんから寄せられることもあるそうだ。木村さんは、そのやりとりを「セッション」と呼んでいるという。

パン・オ・ルヴァンにはアッシ・パルマンティエをのせて。

福岡で天然魚の卸を営む武市隆太さんのイサキをグリルにして、肝のソースで。クルミのパンを添える。

鶏のバロティーヌはローズマリーのソースで。アプリコット、ハッサクピール、アーモンドのパンと共に。

「パンも野菜も届いてきた時の喜びが大きくて、何もかも忘れる幸福感があります。適切な言葉じゃないかもしれないけれど、破壊力というか(笑)、すべてを消し去るようなパワーが続いて、ずっと向き合っていたくなる。自分が作ることに満足していてはいけないとは思うのですが、でも、自分が本当に好きなものを出したいって思うんです。木村さんのパンと長谷川さんの野菜、それから料理家の有元くるみさんの食材を一緒に食べられるなんて幸せでしょう?」

呂美さんの根底に流れるのはプライベートな感覚であり、家族の中で培われた価値観かもしれない。が、それが求められるものであることも事実。
夜遅く、ご近所さんや近隣で働く人たちが「何かテイクアウトできるものある?」と駆け込んでくる。コロナ禍の時には、お皿持参で訪れるご近所さんが多かった。予約だけ入れて「何か食べさせて!」という常連が少なくない。気のいいお母さんが切り盛りする、いつも馴染み客でいっぱいの食堂みたいだ。「gather」としても活動するから、営業時間がまちまちだったりするけれど、そのゆるやかさが肩肘張らない付き合いを生む。

キャトルカールにはルバーブのコンフィチュールを挟む。

呂美さんを見ていると、フランスの経済学者で思想家ジャック・アタリの言葉を思い出す。「利他主義とは、合理的利己主義である」。日本のことわざが言うところの「情は人のためならず」だが、呂美さんの場合は、主述を入れ替える必要がある。「合理的利己主義とは、利他主義である」。つまり、利己の追求は利他へとつながる。「自分が作ることに満足していてはいけない」なんて思わなくていい。呂美さんが我を忘れて料理することが、周りを幸せにしているのは間違いないのだから。



小川呂美(おがわ・ろみ)
1975年、東京生まれ。2000年から4年ほど味の素フローズンベーカリーに勤務。2004年からはオートクチュールのアトリエメゾンを手伝う。2006年から12年間、西日暮里のブーランジュリー「イアナック」で働く中でフランスパンと料理を習得。2018年、「torigoeT」をオープン。並行して、「gather」の名前でイベントのケータリングやフードコーディネート、レシピ考案や撮影のための料理製作なども手掛けている。

torigoeT
東京都台東区鳥越2-5-1 恵比須ビル1F
12:00〜 *営業時間は日によって変わるので、Instagramで要確認
日曜、祝日休
Instagram:torigoe_t

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