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PEOPLE / 生産者・伴走者

長谷川純恵さん(はせがわ・すみえ)長谷川治療院/農業部

1999.01.01

長谷川純恵さんの野菜を「清らかな味」と表現するのは、料理家の遠藤千恵さんだ。
「春先の野菜が持つ苦味も、エグミではなく、清らかな苦味」
長野県佐久市春日。標高1000mの気候風土と水がその清らかさを育んでいるのは間違いない。
が、それにもまして長谷川さんの自然との向き合い方によるところが大きい気がする。
東京・神田「ザ・ブラインド・ドンキー」の原川慎一郎シェフとは彼が「BEARD」時代から料理人と生産者の関係だ。他にも押上「SPICE Cafe」、大阪市「オステリア ラ チチェルキア」、佐久市「Maru Cafe」など、長谷川さんの野菜と生き方に惚れ込む料理人は多い。

text by Sawako Kimijima / photographs by Masahiro Goda



誰のための農業か?


就農の理由は人によって様々だ。長谷川純恵さんの場合は、罹病だった。

「15年前に大病をしました」

調べてみると、術後の5年生存率が50%と書かれていた。運悪く同時期に夫も病を得る。まだ3歳の一人娘を前に考えた、生き永らえるにはどうしたらいい?
「自然界にとって必要な存在になれば、世界が私を生かしてくれるのではないか。何の根拠もなくそうひらめいたのです」

自然界の生物は互いに連関し合って生きている。生態系や生命共同体という言葉が示すように、他者との関わりの上に生命の存続がある。生命共同体の一員としての役割を果たしたなら、自分の生命も生かされるのではないか。長谷川さんはそう考えた。そして、「この身体を使い切って生き切ろう」と決めた。それが有機農業に取り組むきっかけだった。

足掛かりとして、佐久市の「くさぶえ農園」に研修に入る。2年間、有機農業の基礎を学び、自宅近くの30aの農地を耕し始めたのが2010年。手探りで畑と向き合う長谷川さんにとって、2つの言葉が指針となった。

ひとつは、佐久市で蕎麦料理店「職人館」を営む北沢正和さんから言われた「土から上を見ていてはダメ。土の中を見なければ」。芽が出て、葉が繁り、花が咲き、実が生る、成長を追うことは大事だけれど、それらは土壌に豊かな生物相が形成されていればこそ。意識を向けるべきは土の中。

そして、もうひとつは、人を介して伝えられた米西海岸「シェ・パニース」に野菜を納める農家ボブ・カナードの「観察がすべて」。勝手に敬愛する人物の言葉だった。
「陽は当たっているか。いつどんなふうに当たっているか。土は硬いか軟らかいか、湿っているか乾いているか。草はどんなふうに生えているか。空気はどう流れているか。とにかく観るんだ、と。この土壌は私に何をしてほしいのか耳を傾けなさい、私の役割は何かを考えなさい、と言われている気がしました」
大地を観る、使い手を思う
プロの農家として、今年の4月で10年目を迎えた。直販主体で、週2回の発送作業と週1回の配達もすべて自ら行なう。
約1haの畑で年間約200種。天候によって作柄や収量が左右されるリスクを分散するため多品種少量栽培に徹する。決して特別な農業ではないが、風土に合った種を蒔き、土づくりには心を砕く。土の中の微生物たちがバランスよく生きていけるように、必要に応じて藁や籾殻などによる堆肥やぼかし肥料を施す。

ボブ・カナードの教えに従い、日々観察に努めている。朝一番の畑パトロールを欠かさず、昨日と違うことが起きていないかを見て回る。北沢さんの教えに従い、土の中を意識する。「土は明らかに10年前より生物相が整って、野菜が育ちやすくなってきた。雨が降ってもぬかるまない。通気性や排水性が保たれた土であることがわかります」。

病気の心配もなくなった。「お医者様から『もう大丈夫』と太鼓判を押していただきました」。
自然界の一部になれたかどうかはわからない。ただ、少なくとも自分が育てた野菜を使ってくれるシェフや主婦たちが自分に農業を続けさせてくれていることだけは間違いない。
「時折、どうして私の野菜を使ってくださるのだろうと不思議になったりもします。自分が良い野菜を作れているかどうかわからないから。少なくとも彼らが困らないものを送らなくてはと思う」

硬い小松菜をレストランに送ったら、たとえ味は良くても客からクレームがついてシェフは困るだろう。ピュレにしたら食べられるかもしれないけれど、それでは手間をかけさせてしまう。旬だからと言って同じ野菜が続けば、主婦は家族から「また!? 」と言われるに違いない。長谷川さんの心の中にはいつも使い手がいる。彼らから必要とされる存在であろうとすることもまた生産者としての指針だ。
ties」を主宰する料理家、遠藤千恵さんの調理による長谷川さんの野菜たち。ちぢみ雪菜は少量の水、塩、ヒマワリ油(これも長谷川さん製)でブレゼに。ちょうほう菜は軽く油をまとわせてパリパリに焼く。黒大根はステーキに、紅くるり大根は三五八漬けに。ニンジンは140℃のオーブンで2時間、調味は塩と油とクミン。3種のジャガイモは蒸して手で割り、塩とオイルを。サツマイモは石焼き芋にした後、カットしてロースト。白インゲン豆と大豆は蒸してタマネギ糀とヒマワリ油で和えて、花豆は塩茹で。他にタマネギ、ビーツ、レッドマスタード、ルーコラ、長谷川さんの大豆で仕込んだ味噌を添えて。

写真の料理を作った遠藤千恵さんの「清らかな味」という感想に対して、長谷川さんは次のように語る。
「特別なことをしないからかもしれません。たとえば私はビニールマルチを張らない。ビニールマルチには地温の調節、雑草抑制、乾燥防止、病気予防などの効果がありますが、同時に野菜の味にも影響を与えるでしょう。好ましい影響かもしれないけれど、私は要らないと思うのです。虫に齧られれば、齧られないための成分を出して葉や茎が硬くなる。風が吹けば倒れないようにシャキッとする。寒ければ凍らないように糖度を増す。彼らには生存するためのシステムが組み込まれています。必要以上に雑草を取らなければ、草が余分な肥料を吸い取るから、肥料の影響も薄まっていく。清らかな味と受け止められているのだとしたら、それはことさらなことをしない育て方が生み出しているのではないでしょうか」

植物にとって必要な日照も雨も風も、人間にはどうしようもないこと。植物はその中で生きている。だから「観察がすべて」とボブ・カナードは言ったのだ。
自然の理の美しさ
「草木国土悉皆成仏(そうもくこくどしっかいじょうぶつ)」――それが長谷川さんの信条だ。草木や大地のような心識を持たないものにも仏性があり、成仏するとの意味である。「枯れてくすんだ姿も、土に返ろうとする姿も、虫に齧られた姿も、みな自然の理に適って美しい。存在すべてが美しい」。畑と向き合いながらそう思う。

遠藤さんの長谷川さんとの付き合いは7年を数え、畑の手伝いもしてきた仲だが、野菜の注文は1年半前からという。「軽々に『使いたい』と言えなくて」と遠藤さん。
「覚悟を感じるんです。自然のありようも自分の生命もすべてを受け入れようという覚悟を感じる。畑の長谷川さんを見ていると、野菜や植物の声を聞き取って会話しているのがわかります。自然と一体化して、境界なく存在する尊さを感じるのです」

就農を決意した時3歳だった娘は、今年、高校3年生になった。「ごく普通の高校生ですが、自然と関わりながら生きていくとはどういうことか、感じてくれているように思います」。中学生の頃から「大人になったら自然保護活動の仕事がしたい」と言っていたそうだ。そのためには理系の勉強が必要なのよと伝えると、一生懸命理系の勉強をしているという。自然界にとって必要な存在になろうとの決意はこうして母から子へ引き継がれていく。

◎ 長谷川治療院 農業部
https://www.facebook.com/hasegawachiryoinnougyobu/

長谷川純恵(はせがわ・すみえ)
1968年、奈良県生まれ。大阪でグラフィックデザイナーとして広告制作に携わった後、2008年、鍼灸指圧の治療院を営むご主人と長野県佐久市に移住。同市「くさぶえ農園」での2年間の研修を経て、2010年より独立。



























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