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PEOPLE / 食の世界のスペシャリスト

83 歳。「ただただ、おいしいバクテー(肉骨茶)を食べたい一心だったんです」

生涯現役|「馬来西亜マレー」稲葉正夫

2023.08.10

text by Michiko Watanabe / photographs by Masashi Mitsui

連載:生涯現役シリーズ

世間では定年と言われる年齢をゆうに過ぎても元気に仕事を続けている食のプロたちを、全国に追うシリーズ「生涯現役」。超高齢社会を豊かに生きるためのヒントを探ります。


稲葉正夫(いなば・まさお)
御歳83歳 1940年(昭和15年)4月18日生まれ

東京生まれ。東京藝術大学で金工を学び、学生時代から友人たちとアトリエ工房を持ち、建築装飾金物を手がける。42歳ぐらいまでグループ活動を続けたのち、金属造形やクラフトデザインの会社を設立。家具や照明器具などの開発を手掛ける。52歳頃に緑内障を発症し、一切のデザイン活動を断念。アトリエでのギャラリー活動を経て、60歳から東京・祖師谷で創作アジアスパイス料理店「馬来西亜(マレーシア)マレー」を妻と2人でスタート。以来、23年。メニューの全てが2人それぞれの創作料理で 、楽しく、張り合いに満ちた日々を送る。

(写真)仕込みをする稲葉正夫さん。「何ごとも人に任せるよりも自分でやったほうがいい」と、厨房設備はほぼDIY。店は自宅を兼ねていて、3階が正夫さん、2階が妻、捷子さんの部屋。


料理はすべてオリジナル。Goodな料理には“愛”がある

バクテーってご存じですか。漢字だと「肉骨茶」と書く、マレーシアの名物料理です。
今から37、8年前に、仕事で初めて訪れたマレーシアで連れて行ってもらったのが、クアラルンプールから1時間ほど走った港町の小さな食堂でした。そこで初めてバクテーを食べて、あまりのおいしさにひっくり返っちゃった。胃袋を掴まれちゃったんです。

それ以来、マレーシアには100回以上は行きましたし、屋台も含めてバクテー屋さんにも240軒以上は行ったでしょうか。でもね、そのうちの8割はノーグッド。まぁ、庶民のごはんですからね。ただ、グッドでないもっとも大きな理由は、心がこもってないからなんです。あまりに愛がなかった。

それはそれとして、僕のバクテー熱は留まるところを知らず、何とか自分でも作りたいと仕事の合間を縫って試作を重ねていました。この時は、店を開くなんてことは1ミリも思っていなかった。ただただ、家でおいしいバクテーを食べたい一心だったんです。
食堂のおばちゃんにもレシピを聞いたりしましたよ。すると、おばちゃんは親切に漢字でレシピを教えてくれるわけです。それを漢方薬屋さんに見せて必要な漢方薬(スパイスですね)を買って、飛行機の中をもう走るようにして帰国して作ってみるんだけど、「何コレ?」ってな料理ができる。つまりレシピ自体がウソだった。そんなこともありました。

現地ではバクテーの素みたいなものも売っているけど、これがまたノーグッド。とどのつまり、自分で作るしかないってことになって、2年ぐらい“作っては失敗”を繰り返すうち、だんだん好みの味ができるようになってきた。嬉しくてね。知り合いのデザインオフィスに鍋釜持って食べさせに行きました。「こんなの初めて食べた。おいしいよ」と喜んでくれるのが、自分にとっても喜びでしたね。

そんなとき、アクシデントが起きた。何と、52歳で緑内障になっちゃったんです。今もですが、片目がほとんどブラインドに。遠近感覚がつかめなくなったので、仕事をやめざるを得なくなったんです。

僕は藝大(東京藝術大学)の金工科時代から金属工芸、各種デザイン設計制作を、奧さんは女子美(女子美術大学)の油絵科出身で、学生時代から革細工工芸や染織工芸を手がけていた。
そこで、1階の仕事場をギャラリーにして、夫婦ともども創作したオンリーワンの品々を展示販売することにしたんです。そしたら、これが口コミで広がって、バンバン売れるもんだから製作が間に合わなくて、マレーシアの若い工芸家さんの作品とかも販売するようになっていきました。そのうち、常連さんたちから「店のコーナーをカフェにしたら」というご要望があって、ついには、「お二人ともエスニック料理がお好きなんだから、料理も出してよ」となった。

ただ、食堂となると保健所が厳しくて、簡単には許可が下りそうにない。これは片手間ではムリだろうと、ギャラリーをやめて、2000年の5月に「馬来西亜マレー」をオープンしたんです。そもそも、僕ら夫婦2人ともエスニック料理が大好きで、奥さんはずっとエスニック料理を勉強していたんです。バクテーは私の担当、それ以外は彼女の担当ということでスタートしました。現地の味というのではなく、日本人の口に合う僕らのオリジナル料理です。

まぁ5、6年楽しめればいいかと、最初はカセットコンロでやってたんです。ところが、いざオープンしてみたら千客万来で、大変なんてもんじゃなかった。2人とも飲食店の経験ゼロですから、もう死ぬ思いでした。肉屋も酒屋も何もかも電話帳で調べて、ともかく持って来てくれるところにお願いして。キッチンもカセットコンロでは賄いきれず、ガス工事をしてもらって、小さなコンロを4つ並べました。あまりに狭いのでプロ用の大きなガス台はウチには不向きなもんですから。

3年目にグルメ検索サイトに取り上げられたら、またまた大変なことに。おまけに、奥さんの創作カレーが賞までいただいちゃったもんだから、やめるにやめられなくなった。気が付いたらもう23年です。コロナ禍以降は、テイクアウトだけに絞って営業しています。

現在、83歳。年相応に目が悪いとかもの忘れするとかありますけど、自分で言うのはヘンだけど、感覚的には60歳です。つまり、とっても元気です。作るのは楽しいし、喜んでいただけるともっと楽しくなる。僕は美食家ではないけれど、アクは徹底的に取り除きますし、スープを飲んだ時にすっと入って、また食べたくなるように仕立てています。“愛”を込めてますから、間違いなくグッドな味だと思っています。

毎朝、4時か5時に起きて、6時か7時に朝食をとります。オートミールに大豆を3種、フルーツミックスを隠し味にして。ルイボスティーとマイブームのセロリをムシャムシャ。妻は夜中の2時ぐらいまで仕込みをしているので、朝と昼は別々です。毎日のように10〜16キロ歩いて、お昼は素ラーメンか素うどんか素スパを食べて、夜は奧さんと食事。雨が降ればエアロバイクを最低2時間。睡眠時間は3時間あれば十分です。

バクテーを作るのも運動も楽しいから続けられる。“ねばならない”はダメですね。40年近く続く趣味のエビネ栽培もですが、まだまだ続けていきますよ。

店のスペシャリテ、「バクテーバビ」(単品¥950・セット¥1200・ともに税込)。アルカリイオン水とニンニク・甘草・八角・桂皮・丁子を合わせて3時間弱火で煮た後、豚肩ロースを加えて1時間、さらに自家製“特殊”調味料を加えて4時間煮る。体に染みわたる深くクリアな味わいは、膝の手術で入院した妻・捷子さんへの差し入れにも重宝した。「看護師さんたちに羨ましがられました」



毎日続けているもの「バクテー」

◎馬来西亜マレー
東京都世田谷区祖師谷4-21-1
☎ 03-3484-0858
月曜、土曜、日曜 
11:30〜14:00  、17:30〜20:00
http://malaysiamalay.sun.bindcloud.jp/index.html
※テイクアウト営業のみ(2023年8月現在)

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