パン職人が熱い視線を注ぐデンマークのライ麦パン「ロブロ」の伝道師
くらもとさちこ
2025.06.30

text by Sawako Kimijima / photographs by Masahiro Goda
2024年春に出版された『北欧デンマークのライ麦パン ロブロの教科書』がきっかけとなって、「ロブロ」が今、注目度急上昇中だ。「富士山が日本人にとって山以上の存在であるように、ロブロはデンマーク人にとってパン以上の存在」と語るのは、デンマーク在住歴30年の著者、くらもとさちこさん。4月末から1カ月ほど帰国していたくらもとさんに、日本人にとってはまだまだ未知のロブロについて話を聞いた。
目次
くらもとさちこ
デンマーク食文化研究家。1966年広島県生まれ。92~93年の半年間、デンマークの教育機関フォルケホイスコーレでデンマーク語を学ぶ。94~97年、コペンハーゲンのロイヤルホテル勤務と広島の税理士事務所勤務を半年ずつ繰り返す。その後、拠点を完全にデンマークに移し、デジタルカメラメーカー「フェーズワン」に勤務。04~07年、高等教育機関スワーズ・セミナリアムで健康と栄養の学位を取得。シュタイナー教育機関でのオーガニック菜食給食の献立指導および給食導入プログラム開発や『北欧料理大全』(誠文堂新光社・2020年刊)の編集・翻訳・序章の執筆などを手掛ける。2024年5月『北欧デンマークのライ麦パン ロブロの教科書』(誠文堂新光社)を上梓。
今、職人の意欲を刺激するパン
パンのトレンドは、食べ手のニーズに先行して、作り手の欲求から発生するケースが少なくない。「今、このパンを焼きたい」「このパンを焼けるようにならなければ」との意欲にかき立てられた職人たちが時流を生み出す。その欲求は多くの場合、「売れるから」ではなく、製パン技術や食材の選び方・使い方、生産者との関わりなど、パン職人としての矜持から湧き起こる。
では、今、パン職人を刺激してやまないロブロとは、どんなパンなのだろう?


日が経ってから、硬くなってからもおいしい食べ方がある
『ロブロの教科書』によれば、小麦栽培が適さない寒冷地デンマークでは、1000年近くもの間、パンと言えばライ麦全粒パンを指したという。その昔、労働の報酬はライ麦かロブロで支払われ、収穫時の手伝いの御礼も、働いていた農家を辞める時のはなむけにもロブロを渡された。結婚式では、食べ物に困らない暮らしを願って新郎新婦が手を携えてロブロを持ち上げる儀式があったり、花嫁から参列者にロブロを配ったり。――といったエピソードを知ると、デンマークにおけるロブロの位置づけが少し見えてくるかのようだ。


くらもとさんが真の意味でロブロの偉大さを痛感したのは、子育てが始まってからだったという。
「幼子を抱えて手が離せず、調理がままならない時に、ロブロさえあれば困らない。ビタミン、ミネラル、タンパク質、食物繊維にも富み、少量で栄養が摂れる。そのまま食べてよく、サンドイッチにしてもよい。おやつにも食事にもなる。日持ちがする・・・メリットを挙げ出したらきりがない」
ロブロが子育てを助けてくれると言いたくなるほど、ロブロのありがたみを身をもって知ったのだった。
『ロブロの教科書』には、「ロブロの時間割」が登場する。7時、10時、12時、15時、18時と一日の時間帯ごとの食べ方が紹介されるのである。また、焼いた当日、2日目、3日目、4日目、日が経ってから、硬くなってからと、日を追うごとの食べ方にも詳しい。硬くなれば砕いておかゆにするし、グラノーラとしても利用する。お弁当はもちろん、スイーツにもなれば、お祝いにも登場する。
そんな汎用性や利便性、保存性に加えて、ロブロを特徴づけるライ麦由来の栄養価の高さは、デンマーク食糧庁が発表している公式食指針の推奨食品例にロブロが常に挙がっていることが何よりの証明と言えよう。




ライ麦が生命線だった
「ここまで人の暮らしに根付いたパンがあるんだ、これはもうパンを超えた存在だなって思うんですね」
「パンを超えた存在」だと思う出来事がもうひとつあった。同じライ麦文化圏のドイツ人の友人から「デンマークのパンって、黒(ライ麦100%)と白(小麦100%)しかないからつまらない」と言われたのである。
ドイツでは、ライ麦と小麦の混合比率によって、パンの種類が多種多様に揃う。配合のバラエティを楽しむパンカルチャーとでも言えばいいだろうか。一方、「デンマーク人にライ麦と小麦を混合するという発想はなかった」とくらもとさんは言う。
「小麦が一般に広まる19世紀後半まで、デンマークにはライ麦しかありませんでした。デンマーク人にとって、小麦は特別な食べもの。ごちそうなんです。だから、混ぜて使ったりしない」
ちなみにデンマークにおける小麦のパンの代表例デニッシュペストリーの誕生は一説に1850年とされる。
デンマークにとってライ麦が生命線。ライ麦100%のロブロなくして、デンマークの食生活は成り立たない。
「富士山は山でありながら、自然遺産ではなく文化遺産として価値が認められた。信仰の対象と芸術の源泉として世界文化遺産に登録されています。私は、ロブロにそれと近い性質を見るのです。食品だけど食品を超えた価値を、デンマークの人々は認めている。デンマーク人がロブロに抱く感覚は信仰に近い」



人のためになるパンを焼きたいから
出版社に本の企画を持ち込んだのはもう10年前。当初は『ライ麦パンの底力』として提案した。しばらく経って先方から「ライ麦パン文化圏を網羅する本を書きませんか」という提示があったものの、くらもとさんにはデンマークに暮らす中で発見した魅力を伝えたい気持ちが強く、「ロブロ限定で」との希望を受け入れてもらい、『ロブロの教科書』は誕生した。

出版以降、イベントやワークショップなど対面でもロブロの認知向上に努めてきたが、この5月の講習会ではパン職人の参加が顕著だった。
「みなさん、『正解を知りたい』とおっしゃいます」
全粒ライ麦100%のパンは、日本人には馴染みが薄い。日本のパン職人の多くはフランスの製パン技術を基本とするため、デンマークのパンの知識にも乏しい。自分が焼くロブロは正しいのかを職人たちは確かめたい。
ちょっぴり驚いたのは、ロブロを「おしゃれパン」と捉える人がいたことだった。「スモーブロに仕立てて食べるパンのイメージが強いせいでしょうか。ロブロはむしろ素朴なパン。私が本で伝えたかったのも、1000年続いたライ麦パンの土臭さであり、地に足のついた質実剛健さ」
一方で、「作る必然性を感じた」「これは作り続けなければいけないパンだと思った」という言葉も寄せられた。「『人のためになるパンを焼きたいから』と言われて、日本のパン職人はそういうことを考えてパンを焼いているのかと感銘を受けました」
パン職人たちをそんな気持ちにさせる要因のひとつに、北海道十勝でライ麦の栽培を推進するアグリシステムの存在がある。環境再生型農業の実践を目指すアグリシステムは、土中に張り巡らされる根毛が土壌改善に役立ち、農薬・化学肥料に頼らずとも一定の収量を確保できるライ麦栽培を広げようと取り組む。2023年には「パンづくりを通じて次世代に健全な土壌を紡いでいく」をコンセプトに、リジェネラティブ・ベーカリープロジェクトを立ち上げた。ライ麦栽培の拡大を図る上でロブロは絶好のアイテムとなる。ロブロを焼きたい職人たちにとって、国産のライ麦が入手できるのは願ってもないことだろう。人の健康にも大地の健康にも貢献するパンとして、ロブロが担う役割は想像以上に大きい。
DEI先進国デンマークのシンボルとして
デンマークとの関わりは、大学生の時。くらもとさん宅にデンマーク人が交換留学生としてホームステイしたことに始まる。その両親の銀婚式に招かれてデンマークに滞在した際、語り合う人々の輪の中で「この人たちの話すことが理解できぬまま一生を終えるわけにはいかない」との思いに駆られる。フォルケホイスコーレと呼ばれるデンマークの教育機関に飛び込み、半年で就職に困らないレベルの言語を習得。その後、コペンハーゲンのホテルや企業で働き、大学で栄養学を学び、デンマーク人と結婚した。

暮らすほどにデンマークへのリスペクトは増していく。くらもとさんをロブロの伝道師たらしめるのは、デンマークへの愛にほかならない。
所得税50%、消費税25%、貯金ができないくらい税金は高い。が、病院も学費も無償で、育児にも老後にもお金の心配がいらない。大学に通う学生には、家賃や本代に困らぬよう、ひと月約15万円が支給される。
「税金は高くても、その恩恵を受けていると、みんなが自覚しています」
幸福度が高くて、SDGs達成度もジェンダーギャップ指数も上位に位置し、オーガニックやグリーンエネルギーをリードし、ワークライフバランスを大切にする。まぎれもなくDEI(Diversity 多様性、Equity 公平性、Inclusion 包摂性)先進国だ。
「デンマーク人の夫は、カフェで支払いをする時、レシートを丹念にチェックします。間違って請求されているものがないかではなく、店の人たちが請求し忘れているものはないかを見るんです」
理想の社会を作るのは自分たちであるとの意識が強いのである。ロブロを通して、デンマークのお国柄や国民性も伝えられたら。『ロブロの教科書』にはそんなくらもとさんの思いが潜む。
◎くらもとさちこ デンマーク食文化研究家
https://www.instagram.com/sachikokuramoto.dk/
関連リンク