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PEOPLE / 食の世界のスペシャリスト

85歳。職業は「洋菓子製造販売」。当時はあまり知られていない仕事だったんです。

生涯現役|東京・市ヶ谷「ゴンドラ」細内進

2024.10.16

text by Michiko Watanabe / photographs by Masahiro Mitsui

連載:生涯現役シリーズ

世間では定年と言われる年齢をゆうに過ぎても元気に仕事を続けている食のプロたちを、全国に追うシリーズ「生涯現役」。超高齢社会を豊かに生きるためのヒントを探ります。


細内進(ほそうち・すすむ)
御歳85歳 1939年(昭和14年)8月11日生まれ

生まれたときから洋菓子に囲まれて育ち、高校卒業後は京都「志津屋」へ。その後、ヨーロッパ修業に1年、スイス、フランス、ドイツ各国で学ぶ。本場の技術、上質の素材にこだわって洋菓子を作るだけでなく、洋菓子業界全体の技術向上に海外との架け橋となって尽力。85歳の現在も、本場の味そのままのサブレや人気のパウンドケーキをはじめ、“本物”を追求し続けている。

(写真)焼成前のサブレの仕上げる細内進さん。生地をプレスする機械を操りながら、「これは機械じゃない、道具なんだよ。だから人間が振り回されたりしない」と教えてくれた。焼きあがったサブレを皿の上に軽く叩きつけては、「割れたでしょう?こうでなきゃサブレじゃないんだ」。フランス語で「砂」という名前の菓子は、ゴンドラでは自転車の籠に入れて持ち帰るのはNG。店主自ら見つけ次第、紙袋はハンドルに掛けてくださいね、と声をかける。「そうしないと、帰って箱をあけたらボロボロに砕けてしまうからね」


ムッシュ(ガストン・ルノートル)に認められた
サブレ生地は、いまだに私しか作ってないんです。

父親は淡路町にあった「両国凮月堂」の支店で修業したんです。凮月堂と名のつく店は多いけれど、上野と神戸だけが“本家筋”。その後、昭和8(1933)年、創業するんですね。父が工場でお菓子を作り、母が店で売るという、町のお菓子屋さんでした。
私は生まれたときから、おくるみにくるまれて工場の中で空き箱に入れられて育ちました(笑)。

幼少期のときの強烈な経験が、東京大空襲。B29が低空飛行でやって来てね、焼夷弾をボンボン落とすんです。今でも覚えてますけど、操縦士の顔もハッキリ見えました。中には、塀に突き刺さったままの不発弾もあったりしてね。子どもたちも靖国神社の塀の下で地べたに座って、自分の家が焼けるのを見ていました。このあたりで焼け残ったのは、この先の店1軒だけでしたね。

今、ニュースを見ていると、ウクライナの町が無差別に攻撃されたりするでしょう。我々も同じ思いを味わったんですよ。だから、あの惨状は他人事ではないんです。

終戦になると、父の昔の仲間が水飴を持ってきてくれたので、昭和21年には、父はもうヌガーやトフィーを作ってました。もちろん、アーモンドはないのでピーナッツでしたけど。バラックを建てて、そこで販売もしていました。小さな窯が残っていたので、卵が手に入るとカステラを焼いたりもして。「ゴンドラ」が今あるのは、そんなときでも休むことなく働いてくれた父のおかげだと思っています。

店の手伝いはごく自然と始めました。当時、ウエディングケーキやアイスクリームを宴会場に収めていたので、学校の休みに集金に行ったりね。もちろん、工場でも手伝いをしていました。だんだんといろんな材料が手に入るようになると、洋生菓子や焼き菓子の種類を1種類ずつ増やしていって、高校に入る頃には、ほとんど今の形になっていました。ただ、パウンドケーキは今と違って、大きく焼いて切り分けるか、いわゆるパウンド型で焼いていました。四角かったわけです。

昭和30年代の始めになると、クリスマスケーキが売れ始めました。シーズンが近づくと、ものすごい量のスポンジを焼くわけです。普段は使わない丸いケーキ型が大量にたまってしまう。そこで、それを利用しようと、パウンドケーキを丸く焼くようになったんです。
マドレーヌも早くから手がけていました。本来のマドレーヌ(コメルシー)はシェル型なのですが、当時はその型が買えなかったため、道具店に型を作らせたんですね。そのとき、なるべく大きく見せようと、今、よく見かける丸い型を作った。ぴったりの紙ケースも作って、博覧会に出したら大好評で、それを真似する職人さんが続出したんです。

中学を卒業すると、父から「おまえは後継ぎなんだから、商業高校に」と言われて、高校は早稲田実業へ。そう、野球で知られる早実です。世界の王貞治さんは1年後輩にあたります。昭和33(1958)年、高校を卒業すると、京都のお店に修業に出ました。父が洋菓子協会の会長をしていましたから、東京だとどこの店も会長の息子を預かりたくないでしょ。だから、父の勧めで京都にしたんです。

19歳の4月に母が亡くなり、修業途中でしたが、6月に東京に戻り、父と働き始めました。しばらくすると、父からヨーロッパに修業に行けといわれ、まだまだ海外渡航が珍しい時代に、商社のツテを頼りにまずはスイスへ。そして、昭和36年(1961年)、ルツェルンにあった名門リッチモンド製菓学校に、アジア人で初めて入りました。チケットは1年有効なのですが、ひとつの国に3カ月しかいられない。だから、スイスで3カ月勉強したあとはフランス、またドイツへ。パリでは「ルノートル」に日本人で初めて入れてもらえたんです。ムッシュ(ガストン・ルノートル)にはほんとうにかわいがっていただきました。

帰国してから、あるとき、店員募集のためにハローワークに行ったら、「何の仕事ですか」と聞かれるもんだから、「洋菓子製造販売」と言ったら、「そんな職業ないよ」と言われたんです。まったく知られてなかった。それで、この仕事をもっと世間に認知してもらわねばと思い、父がやっていた業界活動を極力手伝うように。昭和40年代からは、毎年のように海外から有名パティシエを呼んで講習会を開きました。今はもう地方にも名店がたくさんできていますが、当時は地方のパティスリーはまだまだ少なかった。トローニャ氏、ドラベーヌ氏、シューマッハ氏、エルメ氏などなど、今思えば豪華な布陣をお呼びしました。彼らのおかげで、日本にも本物が根付き、パティシエという職業が認知されるようになりました。

昭和63年にガブリエル・パイアソン氏を招いた時には、来年1月に創設する「クープ・デュ・モンド」に日本も参加してくれないかと頼まれましてね。第1回大会では、日本代表チームの団長兼審査員として参加しました。これらの活動等が功績として認められて、平成17年には黄綬褒章を受章しました。この時は、ようやくこの職業が認められたんだと、感無量でした。

ともかく、もう私ぐらいしか残ってないんじゃないかな。洋菓子業界団体の歴史をつぶさに知るのは。

現在85歳。コロナ禍は除いて、今も毎年ヨーロッパに勉強に行っています。

「ゴンドラ」の誇りというべきサブレは、海外に修業に行ったことがない父が勉強して作り出したものですが、かつて「ルノートル」のムッシュが来日した折、うちのサブレを食べて、「このおいしさ、本物だ」と驚いていました。生地の配合を変えるわけにはいかないけれど、日々、グルテンの出し方の微調整は必要です。それは長年の経験がないとわからない。だから、いまだに生地は私しか作ってないんです。

昼ごはん前に焼き時間がかかるものなど仕込みをしておいて、オーブンに入れてから昼ごはん。焼けた頃に厨房に戻ってきます。趣味は食べ歩きと旅行。

どんなに時代が変わろうと、あくまでうちは、どなたからも愛される“町のお菓子屋さん”であり続けたいと思っています。

ゴンドラで一番人気の「パウンドケーキ」。ほんのり洋酒が利いた深い味わいとしっとり軽い食べ心地は、他では味わえない究極のバランス。ホールは缶入りで購入日から約3週間の日持ちが可能。 ¥3000/直径15センチ、¥4300/直径18センチ、1カットで購入することも可能。


毎日続けているもの「パウンドケーキ

◎ゴンドラ
東京都千代田区九段南3-7-8
☎03-3265-2761
9:30~18:30(土曜は~18:00)
日曜、祝日休
http://patisserie-gondola.com/

(料理通信)

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