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食の人々が教えてくれたこと。
第12回 普通でいつづけるということ ~私の両親

People / Life InnovatorMar. 21, 2017



私が育った家庭は「普通」だったのか?


ここに書かせてもらうようになってから、早くも一年が経ちました。
自分の半生をさらけ出すようで、気恥ずかしく思っていたのですが、お会いした方々から大きな反響をいただき、私自身、勇気づけられています。本当にありがとうございます。
ただ、不思議なことに、皆さんからこの一年間でよく聞かれたのは「藤丸さんの育った家って、どんな家庭だったの?」でした。
今の私の思考回路がどこから来たものか、というのが、一番多い質問だったのです。

その答えになるかどうかはわかりませんが、今回は私の根っこである「両親」のことを少しだけ書きたいと思います。いつもの輝く飲食人の方々は出てきません。期待していただいた方には申し訳ないのですが、今回限りの勝手をお許しください。
独立して11年。ワインショップからワイン造り、飲食店などを大阪・東京で手掛けてきました。周りからは順風満帆、自分の好きなことばかりやっている放蕩息子にでも見えるのか、初対面の方々から「何代目ですか?」とか「親御さんは何のお仕事なのですか?」と聞かれること数多。その反骨精神もあってか、いつも「自分で独立ですし、実家は『普通』のサラリーマンですよ」と言い返してきました。でも、友人たちと昔話をしている時にふと感じたのです。そもそも、私が育った家庭は本当に「普通」だったのか? そもそも「普通」って何なんだ、と。

強く厳格な父親は、絶対的な存在だった。





父は30歳前後で、大きな証券会社から加工食品の問屋に転職。正直、証券会社で働いていた時代の父との記憶はありませんが、転職後は0時を超えて家に帰ることはほとんどなかったと思います。そして、社長の運転手も兼ねていたせいか、外で飲んで帰ってくることもなく、家での晩酌を愉しみにしていました。一通り晩酌した後で夕食に移るのですが、子供たちが食べるものとは別の料理が用意されていました。しかも、出てきた料理が気に入らないと、母に「こんなもの食えるか!」と突っ返すこともしばしば。
今の時代ならびっくりされるかもしれません。が、藤丸家ではそれが普通だったので、特に疑問も持ちませんでした。一家の大黒柱である「父」は、それぐらい絶対的な存在だったのです。学生時代、全国的に有名なアスリートだった父は、私には強く厳格な父親として記憶されています。

父が食事にこだわりがあったかどうかは、今も謎です。魚は嫌いだし、仕事柄、家にはインスタント食品も転がっていました。ただ、まだ当時は値段が高かったせいか、ファストフードやコンビニ品はほとんど食べませんでした。
我が家のおやつはほぼ母の手作り。狭いキッチンの半分をガスオーブンが占めていて、そこで毎日焼かれるマドレーヌの香りに家族からクレームが出ることはありませんでした。外食も少なくなかったのですが、私自身は母の料理が大好き。たまに父が母を休ませるために外食に誘うと、私は「何のために、わざわざお金を払ってまで、まずいものを食べに行くのか?」と、母が外食から帰ってきて料理するのを家で待っていました。
なにせ母の料理はとてもおいしかったのです。今も実家に帰る楽しみの大部分は母の手料理を食べることです。

社会人になるまで住んでいた実家は文化住宅で、私が社会人になって初めて借りたマンションの家賃よりも安かったくらいです。そこに家族5人20数年間、まさしく川の字になって寝ていました。
家やモノにはあまりお金をかけない家でしたが、外食や旅行などは多かったので、自分の家庭が裕福とか貧しいとか考えることはありませんでした。普通においしいものが食べられて、近場であっても家族で出かけることが多く、好きな学校にも行かせてもらい、実家を出るまで金銭的な不自由を感じたことは一度もなかったのです。



藤丸家の一員としてずっと家族を見守ってくれている愛猫「ちび」は23歳。両親の代わりに登場です。



「普通」の裏側。「普通」の凄さ。





父はかなり真面目な働き者でした。転職後の会社では、特にパソコンの導入に尽力していたようで、私が初めて体験したコンピューターゲームは父がプログラミングしたインベーダーゲームでした。
父は文系でしたし、元は証券マンでしたので、ほぼ独学だったと思います。その後、父の役職は上がっていきましたが、家ではまったく仕事の話をしない人で、子供たちも父がどんな仕事をしているかを気にもせずに大きくなりました。
多少、私と弟が中学時代に元気(?)だったぐらいで、毎日が何事もなく時間は過ぎていきました。家が尼崎で、父の会社も神戸だったため、さすがに阪神淡路大震災の時はいろいろありましたが、すでに責任ある役職だった父は、その時でさえ、ほとんど会社のことを子供たちには話しませんでした。

大人になり、経営者になり、家族を持った今、思い返してみると、私は常に大きな傘の下でぬくぬくと育てられたのだと気付きます。大きな嵐が来ようとも、傘が大きく頑丈だったので、嵐が来ていたことすら、子供たちは知らずにいた。特に何事も起きていないように感じていた。だから、「普通」の家庭と思っていたのでしょう。

でも、自分が今の立場になって思うのは、何事も起こさせないことがどれだけ難しいか、ということです。私が感じていた「普通」がどれだけの努力や愛情によって作られたものだったのか、想像するだけでこみ上げるものがあります。

今の世の中で「普通」であることは凄いことだと思うのです。とても誇らしく自慢できることなのです。
私は、これからは自信たっぷりに言い続けると思います。「私は普通の家庭で育ちました」と。





マスカットベイリーA(カタシモワイナリーで委託醸造)





私が生まれて初めて栽培醸造を手掛けたワイン。堂ノ内の畑で栽培したマスカットベリーAをとてもとても優しい味わいに仕上げました。
大学4回生の時、父親と初めて二人で焼き鳥屋に行き、進路について聞かれました。私がワイナリーで働きたいと伝えると「農家でも理系でもない普通の家の人間が、どうやってそんなところで働けるの?」と一蹴。当時は何も言い返せず、「いつか必ず……」とグッと夢を飲み込みました。
そして、十数年後、委託醸造でその夢を叶え、自社ワイナリーへと繋がっていきます。このワインは両親への回答のつもりで造りました。「普通」の家に生まれたからこそ、このワインが生まれ、アーバンワイナリーが誕生したのだと。
*トップの写真は、在りし日の堂ノ内の畑です。残念ながら今は売却され、跡形もなくコンクリートに。


藤丸智史(ふじまる・ともふみ)
1976年兵庫県生まれ。株式会社パピーユ代表取締役。ソムリエとして勤務後、海外のワイナリーやレストランで研修。2006年、「ワインショップ FUJIMARU」を開店。大阪市内に都市型ワイナリー「島之内フジマル醸造所」、東京に「清澄白河フジマル醸造所」を開設。食の生産者と消費者を繋ぐ楔役としてワインショップやレストランを展開。 www.papilles.net







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