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PEOPLE / 寄稿者連載

食と科学

蕪木祐介さん連載「嗜好品の役割」第11回

Aug 29, 2022

チョコレートや珈琲焙煎の試作をしていると、若いスタッフから、「実験」と呼ばれることがある。そう言われる度にどこか違和感を感じていたが、あながちやっていることは違いないのかもしれないと最近は思うようになった。

子供の頃、動物や自然が好きで、牧場を開きたい、獣医になりたいなどと当時の文章に綴っていた私は、10代の終わりには動物学者を志し、大学で動物科学を専攻した。仰々しく聞こえるが、頭が悪く獣医になど到底なれず、それでも動物、自然と関わる道を模索して決めた進路だった。その後、新たに芽生えた珈琲やチョコレートの道への迷いが生まれ、科学者の入り口に立ちながら悶々と彷徨っていた。今の仕事とは関係のないその時代のことは日に日に記憶から薄れ、当時の記憶を思い起こすこともほとんどなくなっていた。


当時動物科学を専攻するきっかけになった本、コンラート・ローレンツの『ソロモンの指環』は今も本棚に入っている。

その記憶が鮮明に思い起こされたのは、先日、学生時代の恩師の退官講義を受講してのこと。その先生は自然科学とは全く異なる道に進んだ私のことも、卒業以降も気にしていただき、自身の店を開いてからも、学会のついでにと東京の店に度々足を運んでくれていた。そんな先生の最終講義となれば、伺わずにはいられず、最後の学生時代二年間を過ごした福岡へ昨年春に赴いた。最終講義のテーマは「いまを生きる」。研究者、そして教育者として考えを、思い出を交えながらお話しをされ、その中身はとても感慨深いもので、同時に必死にもがいていた学生時代の記憶が鮮やかに蘇っていった。そして、今の仕事のスタンスも、この時代に培っているものが多いことに気付かされた。

時間があるといつも大濠公園でぼんやりとしていた。久しぶりに伺っても、その景色は今も変わらず。


人が手を使って仕事をする大きな意味

当時勉強していたのは動物栄養学、動物行動学、そのように括られる学問分野であり、数時間、動物に張り付いて観察をすることも多くあった。自然科学は何よりもまずは観察から。それは目の前で起きている事象のその裏側の真理を探ることでもある。「観る」ことの大切さは今も痛感することだ。宮本武蔵の『五輪書』にこんな言葉がある。「眼の付け様は、大きに広く付るなり。観見の二つあり、観の目つよく、見の目よわく、遠き所を近く見、近き所を遠く見ること、兵法の専なり」。表面的に見えるものだけではなく、その奥を観ることの大切さを説いていることだろう。

この観ることの大切さは、自然科学でも、飲食の創作の世界でも一緒なのではないか。何気ない普段の作業でもイレギュラーなことは多々起こる。生地がだれてしまった、珈琲の酸味がいつもよりも強く感じる、それは何かの人為的ミスからか、温度、材料、時間の違いからか、幾つもの要因がある。うまくいかず、ただやり直すのは簡単だ。しかし、その異なる結果を見て、何故そのようなことが起こったのか、その裏の法則性を広く観ようとすることで、新しく生まれる学びはとても多い。

スタッフのミスの報告に対しても、どうしてそうなったのか?なんでだと思う?と執拗に聞いて考えさせる私はスタッフからは相当煙たがられているかもしれない。失敗をすることは人間だから仕方ないけれども、そこから考えないことに対しては強く指摘してしまう。今はなんでも機械化、効率化が進む中で、人が手を使って仕事をする大きな意味の一つが、ブレを生みながらも観察力を培い、学び高めることができるからだと思っている。

「科学的」というと、頭脳的で分析的な見方と捉えられがちだが、決してそういうことではなく、起こる現象に対して疑問を持ち、それに対して仮説を立て、検証、考察を繰り返し続けることに過ぎない。地味で面倒な作業の繰り返し。チョコレートの食感、珈琲やチョコレートの香りの出し方、私の店のものは仮説と検証の繰り返しから生まれている。もちろんセンスあるシェフが天才的な創造をすることもあるだろう。さまざまな場所で修業と経験をして、いつの間にか引き出しが増えている人もいるし、理屈抜きに師の技術を伝承することの必然性を感じている方も多いだろう。

しかし今の自分のスタイルは、科学者の入り口に立ったあの時から、ひたすら試作と試食を繰り返し、経験値と引き出しを増やしていく方法になっている。もっと香りを強くするにはどうすればいいか、なぜこうなってしまうのか、こうやったら解決できるのではないか、仮説と検証の延々と続く繰り返しは忍耐力が必要なことではあるが、その真理が少しずつわかっていき、小さな「なるほど」を感じる毎日は意外と充実感のあるものである。

10年以上前から、今でも仕事で愛用しているKOKUYOのノート。その名も、「RESEARCH LAB NOTEBOOK」。


富士はやはり登ってみなければわからない

恩師の退官講義で、随筆家であり科学者の寺田寅彦の文章を紹介いただいた。彼は夏目漱石の教え子でもあり一見相反する芸術と科学を融合的に捉えているのは、私の好きな宮澤賢治と共通する部分でもある。彼の随筆『科学者とあたま』からその一部を引用させていただきたい。この言葉は科学者のみならず、あらゆる探求者に通じるものではなかろうか。

「科学者になるには『あたま』がよくなくてはいけない」これは普通世人の口にする一つの命題である。これはある意味ではほんとうだと思われる。しかし、一方でまた「科学者はあたまが悪くなくてはいけない」という命題も、ある意味ではやはりほんとうである。
・・・いわゆる頭のいい人は、言わば足の早い旅人のようなものである。人より先に人のまだ行かない所へ行き着くこともできる代わりに、途中の道ばたあるいはちょっとしたわき道にある肝心なものを見落とす恐れがある。・・・頭のいい人は、言わば富士のすそ野まで来て、そこから頂上をながめただけで、それで富士の全体をのみ込んで東京へ引き返すという心配がある。富士はやはり登ってみなければわからない。

頭のいい人は見通しがきくだけに、あらゆる道筋の前途の難関が見渡される。少なくも自分でそういう気がする。そのためにややもすると前進する勇気を阻喪しやすい。頭の悪い人は前途に霧がかかっているためにかえって楽観的である。そうして難関に出会っても存外どうにかしてそれを切り抜けて行く。どうにも抜けられない難関というのはきわめてまれだからである。

頭の悪い人は、頭のいい人が考えて、はじめからだめにきまっているような試みを、一生懸命につづけている。やっと、それがだめとわかるころには、しかしたいてい何かしらだめでない他のものの糸口を取り上げている。そうしてそれは、そのはじめからだめな試みをあえてしなかった人には決して手に触れる機会のないような糸口である場合も少なくない。自然は書卓の前で手をつかねて空中に絵を描いている人からは逃げ出して、自然のまん中へ赤裸で飛び込んで来る人にのみその神秘の扉を開いて見せるからである。

先生より紹介いただいた、『科学者とあたま』寺田寅彦著

「好雪片片別処に落ちず」

美しく降る雪のひとひらひとひらは落ちるべくところに落ち、美しい雪景色が広がる。
以前お客様から教えていただいたこの言葉の意味は、時間を重ねるごとに腑に落ちていく。
どんな道、キャリアを進んでも、懸命にやっていれば、それがいつか自分の仕事との必然性を持ち、自分らしい仕事が出来上がっていくのだろう。
そう信じて、溢れる情報に流されずに、これからも今の自分の仕事に励みたいと思う。

蕪木祐介(かぶき・ゆうすけ)
岩手大学農学部を卒業後、菓子メーカーに入社。カカオ・チョコレートの技術者として商品開発に携わる。2016年、自家焙煎の珈琲とチョコレートの喫茶室「蕪木」をオープン(2019年12月移転、再オープン)。2018年には、盛岡で40年以上愛されてきた喫茶店「六分儀」(2017年11月に閉店)を、佇まいはそのままに「羅針盤」の名前で復活させた。著書に『チョコレートの手引』、『珈琲の表現』(共に雷鳥社刊)。2021年11月に『珈琲の旅 Ethiopia』を自費出版。 
http://kabukiyusuke.com/

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