81歳。「うちの大判焼きは昔、今より倍近く大きかったんよ」
生涯現役|「高橋金星堂」高橋節
2024.01.11
text by Kasumi Matsuoka / photographs by Taisuke Tsurui
連載:生涯現役シリーズ
世間では定年と言われる年齢をゆうに過ぎても元気に仕事を続けている食のプロたちを、全国に追うシリーズ「生涯現役」。超高齢社会を豊かに生きるためのヒントを探ります。
高橋節(たかはし・みさお)
御歳81歳 1942年(昭和17年)11月2日生まれ
高校卒業後、大阪で働いていた24歳の時に、三菱造船で働いていた3つ年上の夫と結婚し、1960年半ばに帰郷。婿養子に入った夫が二代目として店を継ぐ。お茶(表千家)、着物、墨彩、書道、毛筆など多趣味だった。2000年、夫が肺がんで死去。その後、娘の助けもあり、三代目として店を切り盛りし始め、20年が経つ。
(写真)店に立つ高橋節さん。小雪がちらついていたこの日、大判焼きは2時間で売り切れ。「寒いねえ」「いつもありがとうね」と、幡多弁(高知県西部の幡多地域の方言)での会話に、客の表情もほっと緩む。店は大正12年に節さんの父が創業。夫の没後、東京からUターンした長女の営む美容室が、店の隣に寄り添うように併設されている。
よその味も研究しながら、よそとは違う味で、
どうやったらおいしくなるか。
全くの異業種から菓子屋を継ぐことになったお父さんは、最初は「いらっしゃいませ」もよう言えんような感じやったけど、何事にもきっちりした性格でね。初代から教わりながら、菓子作りを覚えていったがよ。お父さんらしい均一でブレがない味と、都会的なセンスを加えた菓子が評判になって、ありがたいことによう売れた。
当時、菓子作りから経理作業、ゴミ捨てに至るまで、店のことはほとんどお父さんがしてくれよってね。私は売るだけやき、楽させてもらいよったがよ。だからお父さんが倒れて「余命半年」と言われた時、一時は店を閉めるしかなかったし、突然のことで私も現実を受け入れられんかった。
その窮地を救ってくれたのが、東京におりよった娘二人。「いつまでも店を閉めちょったらいかん」と奔走してくれた。作り方は全て、お父さんの頭の中にしかない状態やったけん、娘が全部ノートに書き取ってくれた。お父さんが亡くなってしばらくは、落ち込んで仕事ができんかったけど、娘二人が頑張って店を開けてくれてね。「お母さんができることをしてくれたらええけん」ち言うてくれて、私は娘から作り方を習った。そのおかげで今があるんよ。
今、店で作る菓子は、大判焼きと木の葉の形をしたせんべい。うちの大判焼きは昔、今より倍近く大きかった。昔は甘いものに飢えちょった時代で、大きいほど良かったし、あんこも今よりもっと甘いのが求められた。でも飽食の時代の今は、少し甘さが控えめなぐらいが「食べ飽きんでえい」ち言うてもらえる。季節によって塩気を調整して甘さの加減を変えるけど、飽きずに食べてもらえる塩梅を考えて作りよう。
長いお客さんやったら、子どもの頃から50年以上通ってくれよる人もおるけど、「やっぱりおばちゃんの味がえい」「ぼちぼちでかまんけん、長く続けてや」とか可愛らしゅう言うてくれるけん、本当に嬉しいわね。
夜中にあんこを炊くけん、朝は9時頃に起床。食事は朝と夜の1日二食やけど、好き嫌いなく何でも食べる。朝はハムエッグ、ご飯、味噌汁、米酢に玉ねぎとキュウリを漬けたものが定番やね。ニンニクも毎日3〜4個、味噌汁や煮物に入れて食べよう。玉のまま食べると、不思議と臭わんがよ。一日に作る大判焼きの数は季節によっても変えるけど、寒い日ほど早うに売り切れるね。18時頃に店を閉めて、夕食を食べて少し休んだたら、前日に浸けちょった小豆を炊いてから就寝。
おかげさまで、店は創業100年を超えて続けられよう。私も80歳を超えても、店があるけん元気でおれる。みんなが喜んでくれるうちは、できるだけ続けていきたいと思いよるね。
毎日続けているもの「大判焼き」
◎高橋金星堂
高知県宿毛市中央6−2−5
☎ 088-063-2335
9:00〜18:00頃(大判焼きは13:00〜販売。売り切れ次第、終了)
火曜・日曜・祝日休
土佐くろしお鉄道宿毛線東宿毛駅から徒歩7分