日本 [千葉] 日本の魅力 発見プロジェクト ~vol.2 千葉県 北総地域~
伝統とは精神を継承することをいう
2017.03.30
text by Rei Saionji / photographs by Hide Urabe
千葉県の観光地といえば、ディズニーランドがある東京湾沿いの地域か、房総半島の海沿いの地域が有名で、茨城県寄りの千葉県北総地域と言ってもピンと来ないかもしれない。成田空港の近辺で、明治神宮に次いで初詣客が多く、有名人を招いて盛大に開かれる節分会で有名な成田山新勝寺や、近年巨大なアウトレットモールができた地域だが、観光という目的で、この地域を訪れる人はまだまだ少ないように思う。そんな千葉県の北東部の地域でキラリと輝く場所を見つけるべく訪問した。そして、「伝統とは形を継承することを言わず、その魂を、その精神を継承することを言う。」という、柔道の創始者である嘉納治五郎の言葉が頭を駆け巡る場所に出会った。
過去の名主の魂を受け継ぐ郷土愛によって復活したまち。~佐原~
佐原は、『小江戸』として有名な町だが、『小江戸』とは何だろうか。『小江戸』と同じように町の愛称として使われている『小京都』の場合、日本経済新聞によれば、その条件は、「全国京都会議」という組織に加盟し、①京都に似た自然景観、町並み、たたずまいがある。 ②京都と歴史的なつながりがある。 ③伝統的な産業、芸能がある。という3点の加盟基準をクリアすることであるという。『全国京都会議』には、お手本である京都市を含め、現在45の町が加盟している。一方、『小江戸』には、お手本となるべき江戸は既に存在しないため「江戸のような」と言っても、基準を決めたり、お墨付きを与えることは非常に難しい。『小江戸』を名乗る、千葉県香取市の佐原、埼玉県の川越市、栃木県の栃木市の共通点は、江戸との舟運で栄え、現在でも、当時の町並みや風習が残されていることだ。特に、江戸時代の佐原は、『小江戸』ではなく、『江戸優り(えどまさり)』と戯歌で歌われるほど発展しており、当時名人と言われる匠たちを招き、江戸以上のものを佐原につくりあげていた隆盛ぶりは江戸をしのぐほどのものであったという。
東京には現存しない江戸の町並みを体験するべく、千葉県香取市にある佐原を訪れた。佐原へのアクセスは比較的簡単。東京駅からJR総武線の快速で成田まで1時間強。JR成田駅でJR成田線に乗り換えて、30分程で佐原駅に到着。その他、東京駅から出ている高速バスで佐原に行くこともできる(千葉交通京成バス、関鉄グリーンバス)。車では、東関東自動車道を利用し、所要時間は約1時間半。さあ、佐原のまちの散策のスタートしよう。
江戸優り(えどまさり) 佐原
案内役は、佐原商工会議所の椎名喜予さん。江戸情緒溢れる佐原の町を歩きながら、佐原の町並みの歴史について話を聞いた。町中を流れる利根川の支流である小野川沿いや、香取街道沿いには、江戸時代から昭和初期にかけて建てられた木造の町家、蔵、大正モダンを髣髴とさせる洋風建築の建物が今もなおその姿のままで並んでおり、関東で初めて「重要伝統建造物郡保存地区」に選定された。
佐原は江戸中期、8代将軍徳川吉宗の時代には、利根川の舟運による江戸との交易で、江戸から東で最も栄えた町のひとつだった。しかし、それから約300年の年月が経ち、佐原を取り巻く環境は激変している。そもそも、取引先であった江戸は東京となり、物流の方法も、人の移動の方法も、より早く便利な鉄道や自動車へと変化し、当時の佐原を支えていた舟運は衰退してしまった。そして、人々の住居の形態も、より快適でメンテナンスが簡単な洋風の近代建築やマンションが好まれるようになり、また商店も個人商店から大型の複合商業施設が増加している。そんな中、佐原が佐原であり続けることは容易なことだったのであろうか。大金を投じて作った施設ですら、使われないと短期間で廃墟になってしまうように、舟運が衰退した後の小野川は廃水やゴミで汚れ、古い町並みも維持管理にお金と手間だけがかかる『負の遺産』となっていた時代があったという。その時代にピリオドを打ち、佐原を『新たな古い町』に戻すべく舵を切らせたのは、地域の人々の“地元愛”であった。
2003年から運行されている観光遊覧船に乗り、江戸優り(えどまさり)・佐原の町並を復活した小野川から見上げる。綺麗に清掃された小野川、川の景色を縁取る柳の街路樹、景観に配慮して作り直された川の両岸の木の柵のようなガードレールや街灯、地中に埋められた電線。寒い冬の日でも、遊覧船の中には、こたつが完備されているので暖かく、目から入る景色と、耳から入る船頭さんの話しによって、まさにぬくぬくとした暖かい気持ちで心が満たされていく。
この町の名主であったという伊能忠敬は、今の千葉県山武郡九十九里町で生まれた後、佐原で酒や醤油の醸造や舟運業を営んでいた伊能家に跡取りとして婿養子に入った。17歳から49歳まで過ごした旧住宅は、伊能忠敬が婿入りする前の1762年以前に建てられた古い時代のもので、一般開放されている。当時佐原は、小江戸として知られている他の二ヶ所、川越と栃木とは異なり、天領であったため、武士による統治ではなく、町衆の自治によって政治が行われていた。そこで、彼は名主として本領を発揮した。地域で問題が起こった時には、域内を歩き回って説得にあたり、話し合いを重ねて解決。全国的に多くの餓死者を出した天明の大飢饉の際にも、伊能忠敬の裁量の下、佐原からは一人の餓死者も出さなかったという。授業で習った日本国中を歩き、初めて実測による日本地図を作ったのは隠居後なのだ。現在の佐原の運命を決定した偉大な人物である伊能忠敬は、現代の佐原の町の人の心の中に今でも『チュウケイ先生』として生き続けている。
2011年の大震災の時、千葉県で最も甚大な被害を受けたのが佐原のある香取市だった。香取市内で被災した建物は 約6000 棟。重要伝統建造物郡保存地区内にある保存すべき建築物に選定された建物の多くも被害を受け、壁が崩れ瓦が落ちた。建物の被害の他、道路も歪み、陥没。小野川は、護岸が崩れ、液状化によって道路と同じ高さまで隆起した。20数年かけて行ってきた美しい町並みを復活させるための努力が天災によって破壊され壊滅状態に陥ったが、『今こそ示そう江戸優り(えどまさり)、佐原の誇りを。』という指針の元に佐原の人々は立ち上がったのだ。重要なのは目に見えない人々の心で、その心を支えるのは佐原囃子だと、震災の日から2ヶ月後の5月に、佐原囃子のコンサートが開催された。コンサート会場では、被災した市民活動団体の女性たちが正装の着物姿で募金集めをし、被災した人々が自ら募金をした。同年7月には、佐原の大祭を開催。陥没している場所を避け、通れる所だけに山車を通すなど、町衆主体の様々な取り組みにより、佐原はどこよりも早くブルーシートがなくなった。チュウケイ先生から受け継ぎ、今なお人々の心に生きている郷土愛により、再びまちが復活を遂げたのだ。
伊能忠敬の旧住宅のように、資料館として利用している古い建物もあるが、ほとんどが、今も商店として機能している『生きた遺産』である。それらの中には、「佐原まちぐるみ博物館」と書いてある木の看板が掲げられている店がある。
「佐原まちぐるみ博物館」とは、各商店が蔵を開放するなど、それぞれの家に代々伝わる調度品などのお宝や、昔の商売道具、庭園、伝統の味を紹介している。
現在40軒以上ある「佐原まちぐるみ博物館」を運営しているのは、商家の女将さんの有志がメンバーとなっている「佐原おかみさん会」。肩書きは学芸員ではなく、『楽芸員』で、佐原の町の歴史やお店の歴史を楽しく伝えている。
「佐原まちぐるみ博物館」の1軒である「福新呉服店」も大震災の際、屋敷や蔵の瓦が落ち、壁の一部が崩れるなど大きな被害にあった。歴史的建造物の修復には、県や市の補助金、募金活動で集まった寄付金の他、ワールド・モニュメント財団が佐原の町並を「存続が危ぶまれる危機遺産のリスト」に載せたことにより集まった支援によって、費用の大部分が賄われ、修復は数年前にほぼ完了した。
福新呉服店
http://m-kaze.com/sawara/fukushin.html
https://www.facebook.com/sawarafukushin/
千葉県香取市佐原イ505 ☎ 0478-52-3030
『過去の遺産』を守ることのハードルは非常に高い。経年劣化だけではなく、人々の生活や意識の変化、天災からも守らなければならない。しかし、これを守る地域の人々の地元愛、それを賛美する観光客、そして、その賛美の声が地域の人々の誇りをさらに深める、という『正のスパイラル』が生まれることによって、そのハードルは下がっていくに違いない。しかし、古き良き江戸を思わせる町並み、という形だけが残っているのであれば、博物館や時代劇の撮影所のセットと変わりない。現代の佐原に住む人々の心の中に、かつて佐原を救ったチュウケイ先生の魂や精神が継承されていることで、佐原の町は、かつての江戸を超える『江戸優り(えどまさり)』の町になっている。佐原は成田空港から車で30分。クールジャパンを満喫した外国人観光客にも、例えば日本を離れる前に「江戸優り(えどまさり) 佐原」を訪れ、もうひとつ大切な思い出を持って帰国の途に就くことを提案したい。
創業当時の魂を未来へと繋ぐ酒蔵~神埼(こうざき)・酒々井(しすい)~
成田近辺で酒造りを見学できる酒蔵、2軒を訪問した。酒造りといえば、灘のある兵庫県、伏見のある京都府、そして新潟県が日本酒の生産量ベスト3であり、関東地方では、埼玉県が上位に入っている。どちらかというと、千葉県といえば、日本酒よりも醤油のイメージの方が強いが、千葉県には40軒以上の酒蔵がある。なかでも、香取郡神埼町にある、鍋店(なべだな)神崎酒造蔵は、千葉県で最も生産量の多い酒蔵で、関東地方でも上位に入る。
香取郡神埼町 鍋店(なべだな)神崎酒造蔵
鍋店(なべだな)は、創業元禄2年(1689年)、現在の当主は19代目を数える老舗。成田山新勝寺の門前で酒造りを始め、この地に出蔵を設けたのは明治時代であったとのこと。
鍋店(なべだな)の造る酒の5分の1を占める主力製品、不動。もちろん、成田山新勝寺の不動明王の名前を取っている。主に秋田県の美山錦・酒こまちを使っているが、地元神崎産の米を使った100% メイド・イン神崎の酒も造っている。一緒に合わせる食事によって、美味しく感じる酒は変わる。その土地の食材を、地元の味付けで料理し、地域の酒とともに味わう。これが本当の贅沢である。
今回は、製造部部長 宮野明夫さんの話を聞きながら見学したが、宮野さんが菌のことを語る際、菌を「彼ら」と言っていたのが、とても印象的だった。米を酒へと変化させてくれる菌は、蔵人にとって大切な『仲間』なのだ。
鍋店(なべだな)株式会社 神崎酒造蔵
千葉県香取郡神崎町神崎本宿1916 ☎ 0478-72-2255
印旛郡酒々井町 飯沼本家
酒々井町(しすいまち)という、いかにも酒々しい名前の町にある飯沼本家は300年以上の歴史を持つ老舗、酒ツーリズムを牽引する酒蔵だ。酒ツーリズムとは、酒造りだけでなく、酒を中心としたエンターテイメントを提供するという考えに基づいたものであると、日本酒業界以外の業種のサラリーマンを経験した後、アメリカへ留学した異色の経歴を持つ取締役営業部長 飯沼一喜氏は言う。
酒々井まがり家というレストラン+ギャラリー+土産物店の複合施設では、日本酒の利き酒はもちろん、日本酒を使ったメニューを提供。また「きのえね農園」を所有しており、酒米、ブルーベリー、梅、柚子、キウイフルーツなどを栽培するとともに、ここで収穫された米や果実で商品を作る他、観光農園として、フルーツ狩りという楽しみも提供している。飯沼本家では、酒蔵見学もエンターテインメントだ。業界では珍しい有料の見学は、ガイド役である蔵人から酒造りについての講義を受け、酒についてのより深い知識を身につけながら楽しむことができるものとなっている。
毎年ゴールデンウィークの頃に「まがり家フェスタ」という、酒米の田植え体験やバーベキューを楽しめるイベントを、11月末には、魅力ある地域づくりを目指す有志の集まりである「酒人々井すいすい倶楽部」とともに新酒祭りも開催している。年間5万人もの集客力のある飯沼本家は、酒蔵という枠を超えた、酒々井の町をさらに酒々しくしている存在なのだ。
株式会社飯沼本家
千葉県印旛郡酒々井町馬橋106 ☎ 043-496-1111
日本の魅力 発見プロジェクトとは
vol.1埼玉県 秩父地域
「ちちぶ」、新たなる挑戦。-ベンチャーウイスキー-
「ちちぶ」、新たなる挑戦。-メープルベース-
「ちちぶ」、新たなる挑戦。-宮本家-
「ちちぶ」、新たなる挑戦。-ちちぶ銘仙館-
(埼玉県秩父地域 小冊子PDF) (埼玉県秩父地域 小冊子【印刷用】PDF)
vol.2 千葉県 北総地域
伝統とは精神を継承することをいう
(千葉県北総地域 小冊子PDF) (千葉県北総地域 小冊子【印刷用】PDF)
vol.3 新潟県 燕三条
ものづくりの町は九十九神(つくもがみ)の故郷
vol.4 新潟県 新潟市
醸すことでヒト・コト・モノがつながる
(新潟県新潟市/燕三条 小冊子PDF) (新潟県新潟市/燕三条 小冊子【印刷用】PDF)
vol.5 茨城県 霞ヶ浦・筑波山地域
地域の魅力は、点と点が結ばれた時に初めて明らかになる