DINING OUT KUNISAKI with LEXUS
“和魂漢才”の源流へ。
2018.07.06
photographs by Hide Urabe
5月26~27日、大分県国東市で開催された期間限定のプレミアムな野外レストラン「DINING OUT KUNISAKI」。ディナーを手掛けたのは、DINING OUT史上初の中国料理人、東京・南麻布「茶禅華」の川田智也シェフです。文殊仙寺の境内、山の上で森の中という制約に満ちた環境にあって、中華の技法はどう生かされるのか? 参加者の興味が高まる中、期待を遥かに超える精緻な料理が繰り出されました。地元食材のみならず国東独自の伝統文化をも盛り込んだ表現は、技を持つ料理人ならではのクリエイションだったと言えるでしょう。
野外で針の穴に糸を通すために。
「中国料理の最大の武器は、味、温度、香り、食感」――「茶禅華」の川田智也シェフはそう語ります。
調理によって生み出される食材の最高の状態、その瞬間を捉えることに醍醐味がある。だから、「茶禅華」では、叉焼もゲストが着席してから焼き上げ、焼きたてを提供します。
事実、「茶禅華」で食べる料理はみな仕上がりが驚くほどピンポイント。ある物書きによる「一点を錐で突くような旨味」という表現を読んだことがありますが、まさに一点を錐で突くような味、温度、食感です。
針の穴に糸を通すような完成度を目指す料理人にとって、野外で調理することはハンデとならないのか?
「いや、環境を有効に活用できたと思いますね」と川田シェフ。
その言葉は、DINING OUTの新たな可能性を指し示すかのように聞こえました。
最高の瞬間を提供するために、川田シェフが採った手段は2つあります。
ひとつは、キッチンとテーブルの距離を近づけること。
寺の境内や城跡、武家屋敷の一室、はたまた道路といった、レストランを設営するには極限的とも言える場所にキッチンとダイニングをつくり上げるDINING OUTでは、そこに存在する環境を活かすことが大前提となります。
ある意味、制約の上にしか成立しない……。多くの場合、ダイニングスペースから少し離れた場所にテントを組んでキッチンにしています。
今回は、川田シェフの意向を受けて、ダイニングスペースの真横にキッチンを設営。元々がこれまでよりも狭い空間に、キッチンとテーブルがコンパクトに配置されたため、中華鍋を振るシェフを目の当たりにする距離から、できたての料理が運ばれるという状況が生み出されました。
もうひとつが、調理工程を2段階に分けること。
「中国料理では通常、下拵えの後の調理は一気に仕上げます。そこを6割までで止めておき、残り4割を現場で完成させるという方法をとりました」
それによって、制約の多い場での調理時間を短く、かつ、コントロールしやすく、客前で理想とすべき瞬間に到達できるようにしたのです。
たとえば、「国東的良鬼」(三島フグ“国東の鬼”四川名菜 干焼魚)の場合、三島フグのウロコ、内臓、エラを取って、醤油を塗り、250℃の油で揚げてから、清湯に浸した状態で25分間蒸して半日置きます。ここまでが6割。これらは会場に入る前に行います。会場のキッチンで提供時間が近づいたら、250℃のオーブンで5分間焼いて表面をパリッとさせると同時に、三島フグを浸けていた清湯とタケノコ、シイタケなどでソースを作って、魚にかけてサーヴ、という段取りです。
「試作を重ねる中で、2段階に分けて調理するほうがよりおいしくできることに気付きました。清湯に浸けている間に、魚にだしが染み込み、だしには魚の旨味が移り、魚の身離れもよくなる。DINING OUT以降は店でもこの段取りで調理しています」
制約が調理法を進化させたわけです。
地元では見向きもされない魚が主役に。
ところで、三島フグは地元では1尾10円ほどの値しか付かない、いわゆる雑魚として扱われてきた魚です。地元の人々にとって、三島フグがメインの魚に選ばれたことは驚きでした。
「港で三島フグを見た時、四川の古典料理、干焼魚が浮かんだんですね。醤油を塗ってから表面を乾かすように揚げることで、皮が燻したように香ばしくなる調理法です。本場では鯉科の淡水魚で作られますが、それに顔が似ていた」と川田シェフ。中華の技法をあてはめることで、地元も知らなかったおいしさが引き出され、三島フグの存在が見直されることになりました。
川田シェフが三島フグを採用した背景には、別の理由もありました。
「試作の時、揚げていたら、ツノが出たんです」
目の上に潜んでいた突起が、高温の油で熱せられるうちに立ち上がったというのです。
実は、国東半島には独特な鬼の文化が伝承されています。毎年、旧正月には、寺の僧侶が鬼の面をかぶって無病息災や五穀豊穣を願う修正鬼会と呼ばれる行事が催されます。国東において鬼は追い払うものではなく福を呼ぶもの。シェフは、三島フグのツノで国東独自の鬼文化を表現しようとしたのでした。
料理に取り込まれた国東独自の文化がもうひとつあります。石の文化です。
今回、ディナーのホストを務めた中村孝則さんは、修験者、いわゆる山伏の装束でゲストを迎えました。
というのも、国東が山岳仏教の土地だから。そこここに、昔、修験者たちが、岩屋に本尊を祀り、山の岩場を駆け巡って心身の鍛錬を積んだ痕跡が残っています。ディナー会場となった文殊仙寺の本堂の立地を見れば一目瞭然でしょう。
また、国東の寺の入り口に立つ仁王像はほとんどが石造りで、全国に分布する石の仁王像の8割は国東にあると言われます。仁王像に限らず、至る所に石仏が鎮座していて、石に祈りを込める営みが続いてきたことを窺わせるのです。
川田シェフはそんな石を熱源として使いました。超高温に焼いた石に熱々の岩茶をかけて上がる蒸気で食材を蒸し上げた……。モチーフを調理技法へと転換させる発想が見事です。
川田シェフが魅力を開花させた地元食材は三島フグばかりではありませんでした。ドジョウもそのひとつ。国東市に隣接する宇佐市の名産品で、かの有名な老舗「駒形どぜう」御用達と聞けば、「さぞや」と想像が膨らむことでしょう。特徴は清澄な温泉での養殖。泥地に生息すると言われるドジョウを澄んだ水で育てるため、泥臭さのない、品の良さが持ち味です。川田シェフはその品の良さを生かして、あっさりとしたおこげ揚げに仕立てました。「駒形どぜう」でドジョウを生きたまま日本酒に浸けて、酔わせてから調理するのに倣い、生きたまま紹興酒に浸けて酔わせ、おとなしくなったところで、オブラートを巻き、おこげをまぶして180℃の油で揚げます。調味は塩と花椒のみというシンプルさ。
「もしも、自分が椎茸だったら……」
食材を求める旅の中で印象に残った生産者を尋ねてみると、真っ先に挙がったのが、椎茸のクヌギ原木栽培と干し椎茸作りを手掛ける「山や」でした。
「原木が整然と美しく組まれ、日光が適切に当たるように日除けがなされている。計算し尽くされた、でも右脳で感じる世界。もし、自分が椎茸だったら、こんなふうに生えていたい、と思わせられたんですね」
「山や」の山口勝治さんは元々、家業が土木関係だそうです。父親が持っていた山を活用して、副業として椎茸栽培を始めたものの、土木の最盛期と椎茸の最盛期が重なるため、兼業がむずかしくなり、「土木を捨て、椎茸に賭けた」と言います。
ホダ場に案内してもらうと、広がる空間の美しさに息を飲みました。ウグイスの鳴き声が聞こえ、足元を沢蟹が横切ります。川田シェフの「もし、自分が椎茸だったら……」という言葉に納得。
立ち並ぶのはすべてクヌギの木です。
「山からクヌギの木を自ら切ってきて、1~2カ月放置し、木の水分が30%ほどになったところでコマ打ち(椎茸菌を植え付けること)します」との山口さん。「コマ打ちは、梅から桜の間にするんですよ」と奥様のしのぶさんが補足してくれました。
緑の葉を広げているのは紅葉や藤。直射日光が当たらないためのシェイドツリーです。初夏には藤の花が咲き、秋には紅葉するとか。まるで植物園……。
原木の寿命は約15年だそうです。役割を終えた原木を指で押すと、ふかふかと凹み、グズッと砕けます。木の養分がすっかり吸い取られているんですね。
「椎茸の原木栽培は環境作りに尽きます。ジメジメすぎても、カラカラすぎてもだめなんですよ。コマ打ちをしたら、あとはもう肥料とか養分補給とか人為的なことは一切しませんから」
そうして役割を終えた原木は土に返してあげる。なんとエコロジカルな栽培であることか……。
収穫期は11月~5月。原木1本当たり約200個の椎茸で覆い尽くされるそうです。収穫したら、速攻で乾燥機にかけることも良い干し椎茸作りの大事なポイント。乾燥機は42℃でスタートして、少しずつ温度を上げながら55℃まで。時間にして17時間。いったん止めて半日置いてから、再び4~5時間乾燥させます。
「傘の裏側が山吹色なのが良い干し椎茸の証」
クセがなくて食べやすい「290」、香り高くてふわっと柔らかい「新908」、肉厚でアワビのような歯応えを持つ椎茸の王様「115」、クリーミーでミルキーな「327」、品評会での受賞相次ぐ注目株の「とよくに」。山口さんは、品種による違いも大切にしています。そこもまた、川田シェフが惚れ込んだ点でした。
前ばかり見ている現代人への教え。
ディナー会場となった文殊仙寺は、648年、修験道の開祖・役行者(えんのぎょうじゃ)によって創建されたと言われます。聖徳太子よりは後、大宝律令や日本書紀の成立よりも前の飛鳥時代です。それは、最澄や空海が日本仏教を打ち立てる前の、大陸から伝えられた仏教の種の一粒と言えるでしょう。
「茶禅華」の川田智也シェフの起用は、そんな大陸と和の交わりを料理で表現できる人材としてでした。川田シェフは、東京「麻布長江」で10年にわたる修業を積んだ後に、六本木「龍吟」で日本料理を3年間学び、龍吟が台湾に開いた「祥雲龍吟」で2年間副料理長を務めました。川田シェフの身体の中には中華の技法と和の技法の両方が叩き込まれ、それらを日本人の感性で駆使しています。
思えば、ファーイーストの島国である日本には多くの文物が大陸経由で入ってきました。日本人は大陸に多くを学び、日本の風土に合わせて変容させてきた。国東にはそんな私たちの源流が残っている……。
文殊仙寺を舞台とする川田シェフの「和魂漢才」な料理の数々は、つい前ばかりを向きがちな私たちの眼を源流へと向けさせてくれたと言って過言ではありません。
提供された料理から
◎ ONESTORY公式サイト
http://www.onestory-media.jp/