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PEOPLE / 料理人・パン職人・菓子職人

「移住」「週3昼営業」「ダブルワーク」・・・仕事と子育てを両立させる働き方

「CHILAN」ドグエン・チラン

2024.06.20

「移住」「週3昼営業」「ダブルワーク」・・・仕事と子育てを両立させる働き方

text by Sawako Kimijima / photographs by Shinya Morimoto

広島県廿日市(はつかいち)市でモダンベトナミーズとナチュラルワインを供する「CHILAN」は、これからのレストランのひとつのモデルケースと言っていいだろう。営業は週3日(木金土)の昼メイン(貸切の場合は夜も可)、妻のドグエン・チランさんが料理を作り、夫の藤井千秋さんがワインを勧める。「世界を旅するワイン展」(伊勢丹新宿店)などのイベントでも活躍。ECサイトではオリジナルのビールやシードルを販売し、市内にブリュワリー開設を計画中だ。「現時点の最優先事項は3歳の息子」と語る料理人チランさんのワークスタイルは、働き方を模索する飲食業において、学ぶところが多い。

目次







ドグエン・チラン
ベトナム戦争の難民として来日した両親のもと、1988年に東京で生まれる。高校在学中に白金台のフレンチレストラン「ステラート」でアルバイトとして働くうちに、料理人を目指すことに。フランスやオーストラリアを含む国内外のレストラン、ビストロ、ワイナリーなどで経験を積む。2年ほど料理界を離れて会社員を経験。2020年、ソムリエ兼ワインショップフジマルの業務卸営業を務める夫の藤井千秋さんと共に、広島県廿日市市に「CHILAN」を開業。「RED U-35 2021」では508人中ファイナリストの4人に選ばれ、最上位の女性に贈られる「岸朝子賞」を受賞。

待機児童のいない土地へ移住

チランさんは東京生まれの東京育ちだ。留学や海外修業の期間以外は東京を拠点としてきた。その東京を離れることこそ、現在の働き方実現の鍵だったことは間違いない。
「いずれ脱出するつもりでした。高層ビルや満員電車が苦手・・・。東京オリンピックがきっかけになりましたね。国内外から押し寄せる人々でカオスになるのかと思うと、いてもたってもいられなかった」

人生設計上も東京脱出は必至だった。料理人を続けつつ、子供は欲しい。しかし、雇用される立場ではその設計が立てにくい。ならば、独立しかない。でも、東京では家賃が高い。加えて、待機児童がハンパない。調べれば調べるほど、東京での独立という選択肢はないと判断。子供を産んでも仕事を続けられる環境を求めて、夫の実家のある廿日市市に移り住んだのが、2019年末のことだった。

広島駅から山陽本線で約25分の阿品駅近くの高台の住宅地に移住

広島駅から山陽本線で約25分の阿品駅近くの高台の住宅地に移住。車で5~10分圏内に夫の藤井さんの親族が住むため、なにかと心強い。

蔵風の中古物件に一目惚れして購入

賃貸物件が少ないエリアで頭を悩ましていたところ、たまたま売りに出ていた蔵風の中古物件に一目惚れして購入。「不動産屋さんから住宅地でも50㎡未満は商業利用できますよと言われて決心した」

開放的で、窓を開けていると心地良い風が吹き抜けていく。

リノベーションして、ご覧のような空間に。開放的で、窓を開けていると心地良い風が吹き抜けていく。遠くに牡蠣棚の並ぶ瀬戸内海や宮島も見える。

チランさんには、料理界を離れて、人材IT企業のWantedlyに勤務した2年がある。
きっかけは、オーストラリアのワイナリーでの研修時に見た、ブドウの収穫やワインの仕込みをしながら子育てをする姿。仕事と生活が切り離されていない。なぜ、日本ではそれができない?特に飲食業ではむずかしい。そんな気持ちがより福利厚生の整った他業種へと飛び込ませた。

結局は料理界に戻るのだが、復帰後は夫の藤井さんと共に、仕事と暮らしを切り離さない生き方を追い求めていく。
「東京在住の最後の頃は浅草に住んでいたのですが、近所のお蕎麦屋さんに入ると、店の子が客席の隅っこで宿題をやっている。そういう光景って、昔の商店には多かったんじゃないでしょうか。そうだよね、これなら仕事しながら子育てできるよね、理に適っているって思いながら見てましたね」

木金土の昼メイン(一斉スタート)という絞り込み

選択と決断のポイントを「定数と変数の見極め」とチランさんは言う。
「世の中には自力で変えられないものと変えられるものがある。変えられないもの、つまり定数にエネルギーを割くのはストレスフルかつ非効率です。そこで疲弊してしまうと、変数に割くエネルギーが足りなくなる。私の場合、東京の地価や待機児童といった自力で解決できない問題には取り組まないと決めました。そして、移住することで、仕事と子育ての両立を目指した。住む場所も働く土地も自由に選べる変数なので、模索するのにストレスはなく、むしろワクワクしていましたね」

JR阿品駅近くの高台の住宅地の一軒家をリノベーションして、その1階をカウンター8席の店にした。
「2020年4月、物件の契約をしたその日に妊娠が発覚。9月に店をオープンして、12月末に出産。21年4月から保育園に預けて、仕事再開です」
仕事と子育てを同時進行できる体制は整ったものの、コロナ禍の渦中。店を100%稼働できない期間を逆手に取って、営業スタイルを模索する。出産までの3カ月の営業の感触で掴んだ、夜より昼のほうが予約は多いこと、木金土に集中させるとロスが少ないことなどから、「木金土の昼メイン(一斉スタート)」というスタイルが導き出されたという。それ以外の営業は、ランチ4人から、ディナー6人からの貸切であれば、柔軟に受け付ける。

広島の「ファームスズキ」のクルマエビはお気に入り食材のひとつ。

“瀬戸内食材を、フレンチの技法で、ベトナム料理に。生産者の想いを感じられるナチュラルワインと。”が店のコンセプト。広島の「ファームスズキ」のクルマエビはお気に入り食材のひとつ。

棚にはスパイスやアジア系の調味料が並ぶ。

料理人として習得したのはフランス料理の技術だが、「母のベトナム料理が私の味覚のベース」。棚にはスパイスやアジア系の調味料が並ぶ。

海老と豚バラの生春巻き。

海老と豚バラの生春巻き。ファームスズキのクルマエビ、加島ファームの霧里ポーク、モヤシ、エゴマの葉やミントを包み込み、味噌ベースにタマリンドを効かせたピーナッツのソースで。

キジ肉と尾道産のフェンネルを使ったワンタン。

愛媛県鬼北町の「鬼北きじ工房」のキジ肉と尾道産のフェンネルを使ったワンタン。キジ肉のだしとノドグロからつくられた魚醤のスープを張って。

2人共にダブルワークでリスクヘッジ

「木金土のランチメインで経営が成り立つのか?」と思うに違いない。その疑問には「2人揃ってダブルワーカーである」とお答えしよう。
先に、チランさんが人材IT企業Wantedlyに勤務していたと書いたが、副業として人材業界の仕事を継続しているのである。
「当初、契約社員だったのですが、正社員にならないかと声をかけていただいた。広島移住を考えているのでむずかしいと伝えたところ、であれば、業務委託に切り替えてリモートで仕事を続けてほしいと。今はいろんな企業の採用支援を業務委託という形で請け負っています」

週の前半は生産者を訪ねたり、レシピ開発や業務委託の仕事に充てる。週後半は店の営業に集中。切り分けて営むことで仕事のクオリティも上がる。

週の前半は生産者を訪ねたり、レシピ開発や業務委託の仕事に充てる。生産者の訪問は、食材の解像度を上げ、調理の精度を高める上で重要。週後半は店の営業に集中。切り分けて営むことで仕事のクオリティも上がる。

一方の藤井さんは、ワインショップフジマルで業務卸営業の職務にあり、「ロオジエ」や「エスキス」といった星付きレストランを担当している身だ。「広島移住とそれに付随する悩みを藤丸智史社長に相談したところ、社長から『移住したらいいし、フジマルは辞めんでもええんちゃう』と背中を押されて。コロナ前でしたが、リモートで仕事を継続することになったんですね。時代に先駆けた判断をしてもらったと思います」

藤井さんは、ワインショップフジマルで業務卸営業の職務にあり、「ロオジエ」や「エスキス」といった星付きレストランを担当している
写真のジャケットは藤井さんが大好きなドナルド・フェイゲン。

ワインを仕事にする前はジャズピアニストを目指していた藤井さん。写真のジャケットは藤井さんが大好きなドナルド・フェイゲン。

決めるのは自分。努力も責任も自分

飲食業における人間らしい働き方の追求は、海外ではすでに静かなうねりを見せており、サンセバスチャン・ガストロノミカやマドリード・フュージョンといった国際的な料理学会で発表するシェフたちのプロフィールが如実に物語る。
健全な働き方を実践するため、平日は環境負荷の少ない昼のみ営業するレストラン。仕事と家族との時間を併せ持つため、人里離れた田舎へ住まいと店を移したシェフ。なんと赤ん坊をおんぶした状態で壇上でのデモンストレーションを行なった料理人夫婦、等々。
チランさんの選択も、根底にある考え方は同じだろう。

「東京を離れられないって言う人が多いけど、極端な思い込みは足枷になりかねない。飛び出してみれば、東京にないものがたくさんある。極論、アマゾンでも、南極でも生きていける」
ただし、そのためには、事前のリサーチや前準備を徹底し、場合によっては根回しも必要。
「やりたいことのためには、やりたくないこともしっかりやる。人生、計画力が大事、軌道修正力はもっと大事」

22歳の時に帰化。「ベトナム人であるか日本人であるかを自分の意思で決めた」。

ベトナム戦争の移民2世で、出生時にベトナム領事館に出生届を提出していなかったため、長らくパスポートを持てないグレーゾーンにいた。22歳の時に帰化。「ベトナム人であるか日本人であるかを自分の意思で決めた」。

この主体的で能動的な思考回路は、どのようにして形成されたのだろう。
「親に言われるがままに受験して入った国立中学からのエスカレーター進学を蹴って挑んだ公立高校受験にありますね」
親との衝突や落ちたら中学浪人というリスクの中、猛勉強して合格。自由な選択には自己責任が伴うことを実感しながら進学した高校は期待以上に刺激的だった。
「帰国子女が多く、多様性が受け入れられる土壌があり、服装や頭髪に関する細かい校則は一切なし。先輩後輩どころか先生との距離も近く、あだ名やタメ語が飛び交う環境。自分の常識は他人の常識ではない、そもそも同じである必要がない、受け入れてもらうには先に受け入れる必要がある、など、当たり前でも見失いがちなことを学びました」

ベトナムのアンティークのテーブルウェアを使う

ベトナムのアンティークのテーブルウェアを使う。現地へ出向いて購入したものも。実はベトナムに行ったのは30歳を過ぎてからだという。

変革のエネルギーをケチらない

「今後、どうなりたいのか?」とよく聞かれるそうだ。既成のレールに乗っからず、独自の進路を切り拓くチランさんを見ていると、思わず尋ねたくなる気持ち、わかります。

飲食業界の潮流は、得てして個人の小さな営みから起こる。その昔、本場の調理技術を学びたくて密入国や片道切符で現地修業した料理人たちによって日本のフレンチやイタリアンは本格化した。外来の料理の多くがそうだろう。東京に小さな店がひしめくのも、料理人たちが自分の世界観を表現しようと欲するがゆえだ。個人の夢やヴィジョンの集合体が時代を動かす。企業はその後を追いかける。

「頭の中に長いwant to doリストがあって、いつ来るかわからないチャンスを常に窺っています。見たい・やりたい・行きたい・会いたいの欲求に忠実でありながら、それを実行した時のメリット・デメリットも考える。今しかない、これを逃したらもうチャンスは来ないと思えば、デメリットがあっても決断するしかありません。デメリットの補完方法を別で探して帳尻が合えばいい。欲張りなので、諦めるという選択肢が基本的にないかもしれません。死ぬまでにできたらいいし、間に合わなければそれも人生」

Wantedlyに勤めていた時、人事部長が言っていた言葉が腑に落ちた――「正しい選択をするか、選択を正しくするか」。経験を生かすことができれば、選択を正しいものにできる。それが彼女の行動指針と言えるのかもしれない。

オリジナルのシードルやビールをECサイトで販売。

オリジナルのシードルやビールをECサイトで販売。廿日市市内にブリュワリーの開設も計画中。東京の人気レストラン「フロリレージュ」の支配人&ソムリエだった中村遼さんとタッグを組む。

「自分の目で何を見たか、経験したか、その引き出しの多さが料理にも表れる」。

「現時点の最優先事項は3歳の息子。ただ、息子には息子の人生があり、私は私の人生を生きなければならない」。自分の人生におけるプライオリティは経験。「自分の目で何を見たか、経験したか、その引き出しの多さが料理にも表れる」。

コロナ禍で店が思うように稼働しなかった2021年、チランさんは「RED U-35」に挑戦した。感染予防のため全審査がオンラインという異例の大会で、「賞やタイトルには興味がない人間だったけれど、オンラインであれば、生後1歳未満だった息子を抱えていても参加できると思った」。そして、見事、ファイナリストの4人に選ばれた。
RED U-35で50位以内にランクインした料理人が加盟するCLUB REDという組織がある。食材のプロモーションやレシピ開発、地域活性イベントといった案件にメンバーの料理人がアサインされる。

「メンバーでなければ、つながりがなかったであろう企業や人々と仕事ができるのはタイトル以上にうれしい。店以外の仕事の広がりという意味でもメリットは大きい」ミシュランの星を獲りたいとか、ベストレストラン50に入りたいといった願望は個人的にはない。それよりも日本の食育をアップデートすべく、いつか給食事業に関わってみたい。
「CHILANのブランド力を上げることがその近道になると思う。そのために必要なことをするだけです」


◎CHILAN
広島県廿日市市阿品4-2-39
木、金、土曜の12:00~(一斉スタート)
それ以外の営業は貸切の場合のみ相談可。
ランチ4人~、ディナー6~8人
https://chilan.jp/

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