ガストロノミーで上を目指したい。女性という無意識の殻から脱皮したRED U-35グランプリ
「エスキス」山本結以
2024.05.30
text by Sawako Kimijima / photographs by Masahiro Goda
35歳以下の若手料理人の発掘・応援を目的とする料理人コンペティション「RED U-35」。2023年のグランプリに輝いたのは、RED U-35史上10回目にして初めての女性料理人でした。東京・銀座「エスキス」の山本結以さん、大会出場時はスーシェフ、現在はシェフを務めています。併せて受賞した女性最上位に贈られる岸朝子賞の受賞インタビューで「うれしいけれど、女性を対象とした賞があることに複雑な気持ち」とコメント。図らずも現料理界への疑問を投げ掛ける形に。レストラン界で女性は特別枠?つまりジェンダー平等ではない?山本さんがたどった心の軌跡を追いながら、女性がレストランで働くことについて考えます。
目次
- ■RED U-35挑戦までには時間がかかった
- ■「生まれ変わったら男性になりたい」と思っていた
- ■食材の声を聞くように、スタッフの声を聞く。そんなキッチンの中で
- ■「自分にもできるかも」と思ってほしい
山本結以(やまもと・ゆい)
1994年生まれ、愛知県出身。辻?調理師専門学校辻?調グループフランス校で学び、ブルゴーニュの三ツ星「メゾン・ラムロワーズ」、サヴォワ地方の一ツ星「アジムット」で研修。2016年7月~21年5月、東京・蔵前「ナベノイズム」を経て、2021年6月「エスキス」へ。2023年、「RED U-35」初挑戦でグランプリを獲得。2024年春からシェフの座に。
RED U-35挑戦までには時間がかかった
受賞後、相次いだ取材では、女性という観点での質問が多かったという。「女性シェフとして、どうなりたいか?」「調理場における男性と女性の違いは何ですか?」、等々。もうひとつ顕著だった反応が、「初挑戦でグランプリは凄いね」。
「RED U-35」は、35歳までは何度でも挑戦できる。たとえば2022年のグランプリ受賞者である京都の日本料理店「研野」の酒井研野さんの場合、挑戦は6度に及ぶ。2015年を皮切りに、シルバーエッグやゴールドエッグを経て、6度目で念願成就した。その点、山本さんは初挑戦でいきなりグランプリの座に。
「こそばゆい気持ちになります。でも、この初めての挑戦までになんと長い時間がかかったことか」
料理人を志す発端は、小学一年生の時の体験だという。
「家族のために料理を作りなさいという宿題が出て、卵焼きを作ったんです。真っ黒に焦がした卵焼きを祖父母も両親も喜んで食べてくれた。その様子を見て、料理人になりたい、と」。正義感の強さゆえに弁護士を夢見た時期もあったが、高校卒業後の進路を選ぶ時点で辻調理師専門学校入学を決断する。「辻調に入るぞって決めると、母が私をフランス料理店へ連れて行ってくれた。初めて食べる本格的なフランス料理に衝撃を受けました」
料理が好きで、料理と共にある生活を送ってきたけれど、そこにはまったく異なる世界が存在していた。計り知れない領域が広がっていた。「辻調に入ってからも、知らないことを吸収するのが楽しくて、ごく自然にフランス料理の道を突き進んでいました」
辻調グループフランス校で学び、ブルゴーニュの三ツ星「メゾン・ラムロワーズ」、サヴォワ地方の「アジムット」での研修を経て、東京・蔵前「ナベノイズム」へ。日本のフランス料理界を代表する渡辺雄一郎シェフのもとで5年間、フランス料理人として現場で通用するための基礎を叩き込まれた。
そして、2021年6月、「エスキス」の扉を開けたことで、山本さんの心に変革が起きていく。
「生まれ変わったら男性になりたい」と思っていた
「RED U-35 2023」応募書類の「応募動機」に、山本さんは次のように書いている。
人と出会い、学び、自身の可能性を広げるために挑戦します。10年前、私は大会の動向をネットで見ていました。戦い抜いて喜ぶシェフも悔しがるシェフも、とても煌めいて見えました。この舞台に立ちたいという思いは年々増すばかりでしたが、経験豊富なシェフたちや輝くような才能ある若手たちに自分は劣っていると自信を持てず挑戦できませんでした。ようやく、どんな結果になってもたじろがないと覚悟が決まり応募しました。
辻?調グルーブ代表で「RED U-35 2023」の審査員を務めた辻芳樹さんは、辻調時代の彼女を優秀な学生として鮮やかに記憶している。しかし、本人は「自分は劣っていると自信を持てず」にいたと記す。それが「どんな結果になってもたじろがない」という心理状態へと変化した背景には、何があるのか?
「私はずっと、自分が女性であることに劣等感を抱いていたように思います」と山本さん。「『生まれ変わったら何になりたいか?』という質問をされると、私はいつも『男性になりたい』と答えていました」
時代と共に変わってきたとは言え、レストランの厨房は伝統的に男性仕様がデフォルトだ。フランスにおいて、レストランの人員体制は軍隊や警察と同じ「ブリガード」と呼ばれる。男性的な組織であろうことは推して知るべし。山本さんが、「もし、自分が男性だったら、もっと働けるだろう、もっとできるんじゃないか」と考えるのも無理はない。「男性であれば、こんな悩みを抱かずに済んだだろうな、こんなこと考えずに料理に没頭できただろうな、と思った出来事も少なくありません」。上を目指せば目指すほど、女性であることが障害のように感じられても仕方がないのかもしれない。
「その意識を変えてくれたのが、リオネル・ベカシェフであり、エスキスの環境でした。エスキスのキッチンにいると、自分が女性であると意識しないんです」
リオネルシェフは、山本さんがエスキスに入って1週間ほど経った時の出来事が忘れられない。
「デシャップにいた私に、結以がお茶を淹れてくれたのです。ショックでした。私はお茶を淹れてもらわなければならないようなことを何かしただろうか?なぜ、結以は今、私にお茶を淹れるのか?」
これまでのキャリアや社会の中で、そうあるべきと教えられてきたのかもしれないが、それは料理人が厨房で求められる仕事なのか?リオネルシェフは、「あなたの仕事は私にお茶を淹れることではない」と伝えた上で、時間をかけて山本さんの心を解き放ちたいと思ったという。
「結以に限った話ではないと思います。女性が、あるいは下の人間が、そうしなければと思ってしまう社会の空気があるのでしょう」
食材の声を聞くように、スタッフの声を聞く。そんなキッチンの中で
シェフによって、店によって、仕事の流儀がある。修業とは、技術を学び、味を学ぶことであると同時に、流儀を学ぶことでもある。それは思考や信条の幅を広げ、目的実現へのアプローチの術を増やし、料理人としてのキャパシティを大きくするだろう。
「結以が入ってきたばかりの頃、結以には結以の流儀がありました。当然、私には私の流儀がある。だから、私は聞きます、どうして、そういうやり方をするの?聞かれる側はなぜ聞かれているのか。わからないでしょうね。それが正しいと思ってやっているわけですから。そんな時、私はことさらに否定したり指示したりはせずに、時間をかけて、本人が気付くのを待ちます。新しいスタッフが入ってくる時はいつもそうです」
「食材の声を聞きなさい」――それが、リオネルシェフの流儀だ。「どのように調理してほしいか、食材は声を発している。その声に耳を傾けなさい」。そう言われて、山本さんはすぐには理解できなかったという。「なんてポエティックなことを言うんだろう、なんてロマンチックなんだろうとは思ったけれど、食材の声を聞くってどういうこと?具体的に何をどうすればよいのか、いまひとつピンと来ませんでした」
半年ほど経った時、リオネルシェフから「結以の身体は今エスキスにいるけど、心はまだ前の職場にいるね。テクニックも前の職場のテクニックだね」と言われたそうだ。
「最近ですね、リオネルシェフが言わんとすることがわかるようになってきたのは」――火入れも調味も食材が決める。料理人は、ある意味、食材に従う立場にあるのだ、と。
「スタッフに対しても同じです。食材の声を聞くように、スタッフの声を聞くのです。自分が声を発するよりも、相手の声を聞く。口を開くよりも、耳を傾ける。それがシェフの役目」とリオネルシェフ。
食材がその食材らしさを最も発揮できるように調理する。スタッフがそのスタッフらしさを最も発揮できるようにキッチンの環境を整える。自分と向き合う他者を生かすことが料理人の務め。リオネルシェフはそう考えている。
「結以は結以。一人の料理人であって、たまたま性別が女性なだけ」。山本さんは、リオネルシェフから言われて、初めて気付いた。女性らしさであるとか、男女の役割であるとか、社会が求める姿を無意識のうちに当たり前と思って従ってしまっていたことに。
「自分にもできるかも」と思ってほしい
「リオネルシェフのもとで働く中で、劣等感が排除されていくと同時に、RED U-35の審査が進むにつれて、自分を縛っていたチェーンが外されていった。そんな感覚があります」
審査において、応募者の性別は関係ない。審査員が見るのは、これからの料理界を担う人材として光を当てたいと思わせる資質をより持っているか、だ。たぶん性別を隠しても審査に変化は起きないだろう。
山本さんは、調理技術もさることながら、3次審査時のグループインタビューでのリーダーシップ、最終審査の舞台でのアシスタントへの指示の出し方の的確さや配慮など、オーガナイズやディレクションの能力が群を抜いていた。そこで発揮されていたのは、周囲を気遣いながら自然な流れで場を取りまとめていく統率力。男性や女性といった観点が入り込む余地はなかった。
山本さんの「RED U-35 2023」応募書類の記述からもう一項目、紹介しよう。応募書類にはグランプリ賞金500万円の使い道を問う設問があり、彼女は次のように書いた。
日本女性飲食業協会を創設したいです。ジェンダーレス社会を目指すこの世の中で協会の名にあえて女性と入れることには理由があります。とりわけ私のいるレストラン業界には、男女における能力の違いを理解し養成するシェフが多く存在します。それでも、この業界がまだまだ男性社会であることには変わりありません。私はこれを女性社会に変換する行いをしたいのでは決してなく、仕事、家庭、子育て、何一つ諦めずに女性も自由な職業選択ができ、男女格差なく平等にリーダー職や管理職になれることを目標に掲げたいのです。女性の社会進出には国を挙げた補助活動が必要なことは明白ですが、女性たちへの投資金にしたいと考えます。
メディアがジェンダーギャップを取り上げない日はないと言えるほど、ジェンダーは現代社会の論点であるにも関わらず、飲食業界においてはあまり話題にならない。
「結以をサポートするのは、結以のためだけじゃない。料理界のアンバランスを少しでも是正したいから」とリオネルシェフは言う。「結以がグランプリを獲ったことで、女性のチャレンジャーが増えることを期待しています」
2023年の大会では、女性の応募が初めて10%を超えた。それでもようやく1割だ。
応募書類に書いた「どんな結果になってもたじろがない」という覚悟は、後に続く人たちのためでもあると思えばこそ。
「男性でも料理人であり続けることは簡単ではないと思う。まして、女性の場合、出産や子育てといったライフステージがある。私自身が料理を作り続けていきたいし、若い女性たちがこの世界に入りたいと思うような、そして料理を続けていけるような、そんな環境をつくっていきたい」
◎エスキス
東京都中央区銀座5-4-6ロイヤルクリスタル銀座9F
☎03-5537-5580
12:00~13:00LO、18:00~20:00LO
不定休
https://www.esquissetokyo.com/access/
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