83歳。「週2回はジム。何かあったときに、チャンスを逃さない体でいないと」
生涯現役|東京・永田町「ラ・ロシェル」坂井宏行
2026.01.09
text by Michiko Watanabe / photographs by Daisuke Nakajima
連載:生涯現役シリーズ
世間では定年と言われる年齢をゆうに過ぎても元気に仕事を続けている食のプロたちを、全国に追うシリーズ「生涯現役」。超高齢社会を豊かに生きるためのヒントを探ります。
坂井 宏行(さかい・ひろゆき)
御歳83歳 1942年( 昭和17年)4月2日生まれ
鹿児島県出水市出身。3人兄弟の長男。中学卒業後、弁当屋、ホテル、ゴルフ場などを経て、オーストラリアのレストランで働く。帰国後、「西洋膳所ジョンカナヤ麻布」でフランス料理と日本の割烹を組み合わせた料理で評判に。テレビ番組『料理の鉄人』の出演を期に一躍茶の間の人気者になる。和太鼓やゴルフのほか、ロードバイク、マリンスポーツ、将棋など多趣味で多才。2009年「現代の名工」に認定。
(写真)「誰がこんな面倒な料理考えたんだよ」と自身のスペシャリテのズッキーニを編みながら冗談を飛ばす坂井シェフ。幼い頃に父を亡くし、母ひとりのもとで育ったため「人生こわいものなしだった」と振り返る。坂井シェフのもとから巣立った料理人は、いまや日本だけでなくフランスでも星を獲得。かつて「フランスで修業しておらず、異端」などと揶揄されたこともあった氏のスタイルは、時を経てその確かな価値を証明している。
最初の熱源は石炭。
今なんか、
マッチすらなくてもパッとつくね
3歳のときに父親が戦死したので、おふくろが和裁で僕たち3人姉弟を育ててくれたんです。みんな貧乏な時代だったから、いつもサツマイモばっかりでね。おふくろが忙しくて料理できないから、中学時代は僕が料理作ってたんですよ。夏は川で鮎とか鰻をとってきたりしてね。その延長線上に料理人というのがあった。おふくろが「腕に職を持て」といつも言ってたのでね。あと、「人に後ろ指差されるようなことはするな」って。父親がいなかったから、躾はめっちゃ厳しかったんですよ。
みんな貧乏な時代だったけど、その中でもうちは極貧だった。だから、早くトップになりたかった。絶対トップに立つしかねぇよなと思ってました。もともと、親父がいないんで、こわいものなし。その場その場で対応できる力さえあれば、楽しく生きられると思ってました。もともと器用で、対応力があったからね。人づきあいも器用なほうなんで。
鹿児島からスタートして大阪へ。今はすごい企業になってるんだけど、弁当屋さんに入ったんですよ。朝4時ごろ起きて、ご飯炊いて詰めて、昼前には自転車で配達する。そんな毎日でした。ご飯を炊くとお焦げができますよね、それは従業員で食べていいんです。これがすごくおいしくってね。しばらく働いてたんですけど、先輩から「おまえ、こんなところで働いてても料理人にはなれないぞ」と言われて、それで「新大阪ホテル」(現・ロイヤルホテル)に移ったんです。ところが、初めて配属されたのが茨城のゴルフ場だった。ホテルに入ったのになぜ?と思ったけど、そのゴルフ場が名門中の名門だったんです。当時、ゴルフやる人なんてセレブしかいなかったから、舌の肥えた人ばかり。だから、勉強になった。
当時、熱源は石炭。石炭ってなかなか火がつかないんです。前の日から調理場に入れとかないと朝から使えない。でも、火力はものすごく強い。それから重油になってガスになって。今なんか、マッチすらなくてもパッとつくけどね。
当時、僕、調理師学校に通ってたんですよ。で、1畳1,000円のアパートの2畳の部屋に住んでました。お給料6,000円もらってたので、家賃2,000円、あとは風呂代。当時、13円だった。先に風呂券買っといてね。普通だと酒飲みに行ったりするんでしょうけど、僕は飲めなかったから。食事はまかないだったし。お金が貯まりそうなもんだけど、生活はカツカツでした。
そんな時代を過ぎて、たまたま、知りあいがいたもんだから、オーストラリアのパースに。ともかく、外に出たかった。外国だったらどこでもよかったの。当時、パースやフリーマントルに、日本の遠洋漁業の基地があったのよ。お金がないから船で行ったんだけど、貨物と客船が一緒になった貨客船という船で、船内で働きながら1カ月かけて行きました。
その頃、現地の人はハサミで魚をさばいてたんです。だから、僕がきちんと包丁で魚をおろすのを見てビックリして、「おまえは魚の担当だ」と。それからは、ずっと魚担当として引き立ててくれた。若くても、入ったばかりでも、仕事ができたら、どんどん仕事を与えてくれた。日本じゃ、考えられないことだった。だからすごく楽しかったんです。
オーストラリアから帰ると、日本は高度経済成長期。いい時代になってきた。結婚もした。もうなくなりましたけど、「西洋膳所 ジョンカナヤ麻布」という超高級店で、シェフとして働くことになりました。鬼怒川の金谷ホテルの創業者、金谷鮮治さんが本人曰く「道楽で始めた店」だったんですけど、その社長のおかげで、新しい世界が拓けた。料理のテーマは、これからの時代を見据えて、フレンチと懐石の融合だった。ものすごくイノベーティブな料理ですよね。その金谷さんが63歳で亡くなられた。そのあと、4〜5年奉公したかな。
そして、青山の小原会館の地下に25坪ぐらいの店をオープンすることに。これは、小原流の家元がジョンカナヤにいらしてくださっていたご縁があってのこと。お家賃も抑えていただいて。お金がなかったから、メニューを印刷できなくて、全部手書き。自分で書いてました。当時のメニュー、結構残ってますよ。
それからは順風満帆と言いたいところですが、そううまくはいかず。渋谷東邦生命ビル(現・クロスタワー)の32階につくった旗艦店が、眺望がいいから、毎週末ウエディングが入っていたんです。料理の鉄人が絶好調のときでしたから。ところが、東日本大震災で大打撃を受け、さらにそのあと、コロナがやってきた。スタッフは抱えてるわ、借金は残ってるわ、で、もうダメかと思いました。でも、スタッフのみんながほんとうによく頑張ってくれたから、ここまで来られた。
まかないも、残り物じゃ
パワーがつかないよ
いま思うことは、一番大事なのはスタッフだなってこと。スタッフに恵まれたから、いまがある。それから、健康。健康には自信もってないと、仕事は続けられない。人生何があるかわからないでしょ。そういうときに対応できる体を作っとかないと、チャンスが来たときに逃してしまう。だから、体のメンテナンスには人一倍気をつけています。週2回ジムに通い、自宅にもジムの道具は置いてある。歯は全部自分の歯ですし、歯医者さんにもホワイトニングに通っていますし、爪の手入れも欠かさない。ロードバイクと和太鼓もやってます。忙しいんだけど、動いているほうが楽なんです。
毎朝、起きるのは8時か9時。朝はいつも中国茶を飲む。それから事務所に行って打ち合わせして、3時か4時頃にまかないを食べる。まかないも、残り物で、というと、パワーつかないので、ちゃんとした食事を食べることにしています。
早く帰りたくてもね、大事なお客様が多いから、結局、うちに帰るのが9時か10時になっちゃう。
よっぽど疲れてるときはすぐに寝ますけど、たいていは、ゆっくりお風呂に入って、ネットフリックスとか見始めちゃうと、夜更かしすることに(笑)。でも、6時間は寝るようにしています。
あと5年で「ラ・ロシェル」は50周年。いま、83歳ですけど、ちょうど米寿の年になります。といっても、年齢は単なる数字だから、年のことを考えたことはないですね。
50周年には、和太鼓を披露する予定。まだまだ元気に働きますよ。
毎日続けているもの
「ラングスティーヌのクルージェット包み」
◎ラ・ロシェル 山王
東京都千代田区永田町2-10-3 東急キャピトルタワー1F
☎︎03-3500-1031
ランチ 11:30~14:00LO
ディナー 18:00~20:00LO
月曜、火曜休(祝日除く)
東京メトロ国会議事堂前駅から徒歩4分
https://www.la-rochelle.co.jp/
■ご意見・情報はメールで(info@r-tsushin.com)
(料理通信)