84歳。「辞めたいと言った僕に、グランドシェフは修業証明書をくれたんだ」
生涯現役|「プチメゾン」立岡 孝志
2024.05.10
text by Michiko Watanabe / photographs by Masashi Mitsui
連載:生涯現役シリーズ
世間では定年と言われる年齢をゆうに過ぎても元気に仕事を続けている食のプロたちを、全国に追うシリーズ「生涯現役」。超高齢社会を豊かに生きるためのヒントを探ります。
立岡 孝志(たつおか・たかし)
御歳84歳 1940年(昭和15年)3月1日生まれ
1940年鹿児島県生まれ。競走馬を育てる農家の7人兄弟の末っ子。20歳で料理の世界に入り、 羽田で飛行機の機内食(国内・国際線)部門に勤務。 67年渡仏。「ドゥルーアン」「ジョルジュ・サンク」などで7年間修業。 帰国後、77年「シェ・パリ」 を開く。その後、都内の調理師専門学校で教授を務める。 2000年から世田谷区の自宅でフレンチ料理教室を開催。23年5月、教室を続けながら、娘とともに、’60年代のパリで出合ったフランスカレーとキッシュの店を開く。
(写真)「楽しいねぇ。今は一瞬一瞬、すべてが楽しいよ」と語る立岡さん。数々の有名フランス料理店で働き、調理師学校でも教鞭をとってきたが、この店を「キッシュとフランスカレー」にしたのは、後継者に教えられるレシピを、と考えたため。盛り付けは、自然に。おおらかに。「お客さまはリラックスして食事をされたい。緊張感を強いるような、自分本位な力の入った盛り付けはしません」と優しく笑う。
夢をもったら諦めるな
自分を信じて、突き進め
僕には恩人と呼べる人が2人います。
1人は、家業を継ぎたくなくて、鹿児島の実家を飛び出して入学した、東京の調理師専門学校の創設者です。
実家は競走馬を育てる農家。7人兄弟の末っ子だったのに、上の6人が皆、家を出ちゃったもんだから、自分が三代目として家業を継がなきゃいけなくなって。でも、どうしても合わなくて家出したんです。もう20歳になってましたから、生きてここに帰ることはないと固い覚悟を決めての出奔でした。
子どもの頃から食べることが好きだったので、料理人になろうと思ったんですね。まずは東京の調理師専門学校へ行くことに。当時、東京まで丸3日かかりました。学校のある駅の宿を見つけて1泊し、翌日、住み込みの仕事を探して、学校が始まるまでの2〜3カ月、「日本食堂」で働きました。
洋食を専攻し、卒業したら、本場フランスに行くと心に決めていました。といっても、1960年頃の話です。周囲からは「おまえが行けるわけないだろう」とバカにされました。でも僕は、こうと決めたら実現するまで頑張るタイプ。一番近道は何かと考えた。日本航空の子会社で、機内食を作る会社に入社しました。だって、勤務先は羽田空港ですから。一番フランスに近いじゃないですか。単純でしょ。
その会社は、海外の航空会社の機内食も作っていて、そこでエアフランスの総支配人と知り合うんです。その方と家族旅行にまで一緒に行く仲になってね。もう何が何でもフランスに行きたいからと、「外国人受け入れにユニオンが厳しい」と言われたけれど、無償でいいからとねじ込んだ。ただ、周囲は全員が反対。みんな、すぐに尻尾巻いて帰ってくるさと思ってました。ただ、一人だけ、創設者だけが賛成してくれて、保証人にもなってくれた。「帰ってきたら、学校を盛りたててほしい」と言って送り出してくれたんです。
フランスでは、郊外のホテル&レストランを皮切りに、いくつかのレストランで働きました。五ツ星ホテルで上司に生意気いってクビになり、売れるものみんな売って、数カ月なんとか食いつないだ時期もありました。22、3歳の若きジョエル・ロブションと一緒に働いた店もありました。
オペラ座近く、フランスでもっとも権威のある文学賞、ゴンクール賞の選考会場だった「ドゥルーアン」という店で働いている時、ある日、お客さんが厨房まで僕を訪ねてきた。僕が作った、鶏1羽丸ごとソース・ショーフロワで仕立てた料理のデコレ(デコレーション)がお気に召したみたいで。以来、総料理長が僕を見る目が変わりました。
ここで働き出した時、日本大使館から要請があって、外交官の奥様方に料理教室を始めたんです。この店で習い覚えたカレーこそ、今の「プチメゾン」のカレーです。初めて食べたとき、衝撃を受けました。日本のカレーとはまったく違っていて、これぞフレンチのカレーだ、なんておいしいんだ、と。「これを日本に広めたい」と強く思いましたね。
3年と決めて渡仏しましたから、そろそろ日本に帰る準備をしなきゃいけない。帰国前に、ホテルの仕事を見ておきたかったので、グランドシェフに「やめたい」と言うのですが、まったく聞き入れてもらえない。ところが、1カ月経ったとき、黙って1枚の紙を渡された。それを見て絶句しました。修業証明書だったんです。それがあれば、どこでも無条件で雇ってもらえるというすごいものです。泣きましたよ。この証明書のおかげで、五ツ星ホテルにもすぐに就職できました。このシェフこそ、2人目の恩人です。そして、帰国。
帰国後、デザートの勉強が足りないことに気づき、再度、渡仏。8カ月ほど修業させてもらいました。そうなんです。渡仏前の学校の創設者に恩返しをという約束がありましたよね。でも、どうしても自分で店を開きたいという思いが強かった。東京・渋谷に開いた店「シェ・パリ」は絶好調。取材もひっきりなしで、毎日昼夜満席。デザートを8種類も出すというのも評判になりました。ところが、忙しすぎて大病を患ってしまうんです。ま、天狗になっていたこともありまして、客足はさーっと引いていった。
3年くらい低迷が続いたとき、「銀座に店を」という話をいただいて、4年続けました。この頃になると、体調が万全でないこともあって、早朝の仕入れの荷物がしんどくなってきた。もう51歳でしたから。店を閉めて、最初の恩人の学校で教鞭をとることに。結局、10年続けました。
そして、2000年から自宅で料理教室を始めたんです。生徒さんは幅広いですよ。いろんな年代の方がいて、楽しくてね。毎日だってできる。大病をしましたから、健康の大切さは痛感しています。栄養バランスよりも、正しい食事をすることが大事。おいしくしようと、できあいのものを使わない。カレーだって、素材と素材を合わせて味や旨味を生み出してく自然な作り方です。このカレーはずっと作り続けていきたいし、パリで学んできたことを伝えていきたいと思ったていたら、娘がやりたいと言い出して、昨年、80歳を過ぎて再びお店を開きました。
毎日朝4時頃起きて、犬の世話をしてから身支度をして、5時ちょっと前に店に着きます。自宅は同じ敷地なので、すぐですね。それから、その日の仕込みをして営業をして、明くる日の準備をして夜9時頃帰宅して10時には就寝します。仕事中はパンの端っこをかじる程度。これは昔からの習慣ですね。パンはロブションのもの。バターはつけず、チーズと食べます。そして、フランス時代から欠かしたことがないカフェオレを。夜は軽めに。
人生っていいもんだなぁとつくづく思います。
夢を持ったら捨てるな、諦めるな。持っていれば必ず実現する日が来る。前向きにいきましょう、と。
毎日続けているもの「フランスカレー」
◎フランスカレーとキッシュ プチメゾン
世田谷区松原3‐24‐21
☎03-6691-3258
水曜〜土曜11:00〜15:30LO
月曜、火曜、日曜休
明大前駅徒歩7分
http://petite-maison.jp/
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