自分の道を歩み続けること~「新橋 工」中安 工さん
藤丸智史さん連載「食の人々が教えてくれたこと」第14回
2017.07.24
連載:藤丸智史さん連載
一緒にレストランをやりたいと思う料理人がいた。
私は元々サービスマンである。
18歳からホテルでアルバイトとして飲食業のキャリアをスタートした後、27歳までずっと飲食業一筋。その後、海外へ渡り、レストランやワイナリーで働き、29歳の時にワインショップで独立した。ワイナリーも立ち上げたけれど、同時にアンテナショップとして飲食店も手掛けるようになって現在に至る。
自分の中で最もキャリアが長く、居心地が良いのが飲食業であることは間違いない。サービスマンとしての思考回路が今の仕事の根底にも常にあるように思う。
サービスマンにとって最も大事なことは、良い料理人に出会うことだ。
ここで言う「良い」とは決して技術の高い料理人かどうかということではなく、自分に合った料理人という意味である。お互いに刺激し合い、お互いを高め合える、あいつが頑張っているから、俺も頑張る、そんなパートナーが見つかれば最高だ。
実は、私はレストランで独立を考えていた時代があり、一緒にレストランをしたいと思う料理人がいた。
料理人の名前は、中安 工さん(ここからはいつも通りタクミと呼ばせていただきます)。今は新橋の居酒屋「工」のオーナーシェフである。彼は、連載第4回に登場した京都「le 14」茂野真シェフのフランス修業時代の友人であり、その伝手で私が働いていたトラットリアに来店、それからのご縁だ。
当時、2人ともパリのレストランで働いており、星付きレストランで働く彼らの話に、とてつもなく大きな影響を受けた。すでに私は当時働いていたトラットリアを退職後、オーストラリアに武者修行に行くことを決めていたのだが、ひとまず彼らと同じ空気を吸うため、ヨーロッパを2カ月ほど旅することに決めた。
18歳からホテルでアルバイトとして飲食業のキャリアをスタートした後、27歳までずっと飲食業一筋。その後、海外へ渡り、レストランやワイナリーで働き、29歳の時にワインショップで独立した。ワイナリーも立ち上げたけれど、同時にアンテナショップとして飲食店も手掛けるようになって現在に至る。
自分の中で最もキャリアが長く、居心地が良いのが飲食業であることは間違いない。サービスマンとしての思考回路が今の仕事の根底にも常にあるように思う。
サービスマンにとって最も大事なことは、良い料理人に出会うことだ。
ここで言う「良い」とは決して技術の高い料理人かどうかということではなく、自分に合った料理人という意味である。お互いに刺激し合い、お互いを高め合える、あいつが頑張っているから、俺も頑張る、そんなパートナーが見つかれば最高だ。
実は、私はレストランで独立を考えていた時代があり、一緒にレストランをしたいと思う料理人がいた。
料理人の名前は、中安 工さん(ここからはいつも通りタクミと呼ばせていただきます)。今は新橋の居酒屋「工」のオーナーシェフである。彼は、連載第4回に登場した京都「le 14」茂野真シェフのフランス修業時代の友人であり、その伝手で私が働いていたトラットリアに来店、それからのご縁だ。
当時、2人ともパリのレストランで働いており、星付きレストランで働く彼らの話に、とてつもなく大きな影響を受けた。すでに私は当時働いていたトラットリアを退職後、オーストラリアに武者修行に行くことを決めていたのだが、ひとまず彼らと同じ空気を吸うため、ヨーロッパを2カ月ほど旅することに決めた。
人生最悪の二日酔いを救ったスープ。
ドイツからフランス、イタリアと主要ワイン産地を自分の足でしっかりと周る旅は、今まで机上の知識でしかなかった無味無臭無色のワイン地図が、土地の香りや味と共に、起伏豊かに色付けされていき、充実感とも満足感とも違う、頭のてっぺんから芽が出て、にょきにょきツルが伸びていくような、自分の視野、視界を変える人生の転機だった。
その旅をバックアップしてくれたのが、茂野さんとタクミだった。言葉ができない私の旅の段取りをしてくれたり、共に産地を回ったり、そして、何よりありがたかったのはパリの彼らの家に泊めてくれたことだった。そう、彼らの家をベース基地として使わせてもらって、各ワイン産地を巡っていたのだった。
ある日、居候していたタクミの家で飲もうと、各地で仕入れたワインを持ち寄って3人で飲み会をしたのだが、一人だけ無職で次の日を気にする必要がない私はしこたま飲んだ。ワインボトル1本とか2本とかいうレベルでなく飲んだ。たぶん、人生で一番飲んだのではないかと思う。
一番飲んだ次の日に人生で一番酷い二日酔いが来るのは、酒飲みなら誰でも知っている。強烈な二日酔いは二日で治まらず、さらに翌日も水分すら摂れない状況で、今考えるとおそらく救急搬送されていいレベルだった気がする。
そして、3日後の晩、タクミが仕事から戻ってくるや否や「藤丸さん、まだ何も食べてないんですか? そろそろ死にますよ? 材料買ってきたので野菜スープでも作りますね」と相変わらず死体のように部屋の片隅でのびている私に向かって、ぶっきらぼうに話しかけてきた。優しいんだか、冷たいんだかわからなかったけれど、少しは回復してきたところだったので「お願いします」とだけ言って、また隅っこで転がっていた。
キッチンから包丁の音が聞こえてくる。しばらくすると「ガンガンガン」と激しい音が鳴り響いた。深夜24時である。いったい何事かと慌ててキッチンを覗くと、丸ごとの鶏の骨を砕いているところだった。
そう、タクミは料理人である。調理師学校を卒業した後、日本での修業はほとんどせず、若くして渡仏、仕事もお金もないところからフランスで生き延びてきた。しかも、働いてきた店は誰もが知る二ツ星や三ツ星のトップレストランばかり。当時のフランス料理界に身を置く若い料理人の中でも飛び抜けたキャリアを持っていた。
まだ20代中盤だった彼はフランス料理しか知らないし、そして、スープの素なんて使ったことがない。彼にとってスープを作るということは、骨を叩くところから始めるものだったのである。おかげで出来上がったのは午前3時を過ぎていたのだが。
自業自得で瀕死の友人のために、自分の仕事終わりにスープを3時間かけて作ってくれるという、実直さと不器用さに私は惚れてしまった。
技術がある人間はたくさんいる。情熱がある人間もたくさんいる。でも、どちらも備えている人間は意外と多くない。
どれだけ技術があっても、それを誰かのために全力で使おうという気持ちがなければ、宝の持ち腐れだ。情熱だけあっても中身がなければお節介で終わる。
こういう料理人と一緒に仕事ができれば、常に自分を律し、切磋琢磨し続けることができるのではないかと思うようになった。
その旅をバックアップしてくれたのが、茂野さんとタクミだった。言葉ができない私の旅の段取りをしてくれたり、共に産地を回ったり、そして、何よりありがたかったのはパリの彼らの家に泊めてくれたことだった。そう、彼らの家をベース基地として使わせてもらって、各ワイン産地を巡っていたのだった。
ある日、居候していたタクミの家で飲もうと、各地で仕入れたワインを持ち寄って3人で飲み会をしたのだが、一人だけ無職で次の日を気にする必要がない私はしこたま飲んだ。ワインボトル1本とか2本とかいうレベルでなく飲んだ。たぶん、人生で一番飲んだのではないかと思う。
一番飲んだ次の日に人生で一番酷い二日酔いが来るのは、酒飲みなら誰でも知っている。強烈な二日酔いは二日で治まらず、さらに翌日も水分すら摂れない状況で、今考えるとおそらく救急搬送されていいレベルだった気がする。
そして、3日後の晩、タクミが仕事から戻ってくるや否や「藤丸さん、まだ何も食べてないんですか? そろそろ死にますよ? 材料買ってきたので野菜スープでも作りますね」と相変わらず死体のように部屋の片隅でのびている私に向かって、ぶっきらぼうに話しかけてきた。優しいんだか、冷たいんだかわからなかったけれど、少しは回復してきたところだったので「お願いします」とだけ言って、また隅っこで転がっていた。
キッチンから包丁の音が聞こえてくる。しばらくすると「ガンガンガン」と激しい音が鳴り響いた。深夜24時である。いったい何事かと慌ててキッチンを覗くと、丸ごとの鶏の骨を砕いているところだった。
そう、タクミは料理人である。調理師学校を卒業した後、日本での修業はほとんどせず、若くして渡仏、仕事もお金もないところからフランスで生き延びてきた。しかも、働いてきた店は誰もが知る二ツ星や三ツ星のトップレストランばかり。当時のフランス料理界に身を置く若い料理人の中でも飛び抜けたキャリアを持っていた。
まだ20代中盤だった彼はフランス料理しか知らないし、そして、スープの素なんて使ったことがない。彼にとってスープを作るということは、骨を叩くところから始めるものだったのである。おかげで出来上がったのは午前3時を過ぎていたのだが。
自業自得で瀕死の友人のために、自分の仕事終わりにスープを3時間かけて作ってくれるという、実直さと不器用さに私は惚れてしまった。
技術がある人間はたくさんいる。情熱がある人間もたくさんいる。でも、どちらも備えている人間は意外と多くない。
どれだけ技術があっても、それを誰かのために全力で使おうという気持ちがなければ、宝の持ち腐れだ。情熱だけあっても中身がなければお節介で終わる。
こういう料理人と一緒に仕事ができれば、常に自分を律し、切磋琢磨し続けることができるのではないかと思うようになった。
彼はフランス料理界から消えた。
私はヨーロッパからオーストラリア、ニュージーランドへと移り、レストランやワイナリーで働いた。その間、実は2人の中では一緒に独立しようという話も出たのだが、地球の真裏にいる者同士、今のようにSNSなどない時代である、なかなか話は進まず立ち消えになった。
そうこうするうちに、タクミからパトロンと共に日本でグランメゾンをオープンするという連絡をもらった。うれしいような悲しいような、そんな感情が入り混じった気持ちになったが、親友がグランメゾンの料理長になるのである。いったい、どんなすばらしい景色を見せてくれるのか、早く帰国して彼の料理を食べてみたいと心待ちにしていた。
しかし、その日が来ることはなかった。華やかなキャリアを持つシェフによる、鳴り物入りでオープンしたグランメゾンは、一年も持たず閉店してしまったのである。
その後、彼はフランス料理界から消えた。彼の心中を察すると連絡するのも気が引けてしまい、風の噂で料理を続けていることだけは知っていたが、こちらから連絡することはできなかった。
その数年後、私は独立してワインショップFUJIMARUを立ち上げた。彼と夢見た飲食店ではなく、ワインショップとして起業して数年後、もう交わることはないのかなと思っていた彼からの電話が鳴った。「藤丸さん、独立されたんですね! おめでとうございます。僕もいろいろあったんですが、居酒屋で独立することになりました。ワイン、お願いしますね!」と。
今だから言えるのだが、とても複雑な心境だった。
彼が元気で、独立することはうれしい。でも、フランス料理ではなく居酒屋だった。誤解のないように言っておくけれど、私は居酒屋という業種は偉大だと思っているし、決して見下しているのではない。会社でも居酒屋を始めたぐらいだ。ただ、なぜ、彼が居酒屋なのか、ということが気になった。
その後、彼の店にワインを卸すようになったけれど、私は店に足を運べなかった。会いたいけれど、見たくなかった。フランス料理人ではない彼の姿を。
時間だけが過ぎていった。
その後、私は自分でワインを造るようになり、彼の店である「新橋 工」でも扱ってくれるようになった。自信が持てなくて、自分のワインの感想を聞くのが好きではない私に、彼は電話をかけてきて、「藤丸さん! 藤丸さんのワイン、めちゃ変だけど、めちゃ旨いじゃないですか! ガンガン使わせてもらいます」。
褒められたのか、ダメ出しされたのか、よくわからないけれど、彼の顔を見に行こうと決心した。彼のお店に行って、今の彼の料理を食べたい。彼はちゃんと私のワインと向き合ってくれたのだから、私も今の彼に向き合いたい。
そうこうするうちに、タクミからパトロンと共に日本でグランメゾンをオープンするという連絡をもらった。うれしいような悲しいような、そんな感情が入り混じった気持ちになったが、親友がグランメゾンの料理長になるのである。いったい、どんなすばらしい景色を見せてくれるのか、早く帰国して彼の料理を食べてみたいと心待ちにしていた。
しかし、その日が来ることはなかった。華やかなキャリアを持つシェフによる、鳴り物入りでオープンしたグランメゾンは、一年も持たず閉店してしまったのである。
その後、彼はフランス料理界から消えた。彼の心中を察すると連絡するのも気が引けてしまい、風の噂で料理を続けていることだけは知っていたが、こちらから連絡することはできなかった。
その数年後、私は独立してワインショップFUJIMARUを立ち上げた。彼と夢見た飲食店ではなく、ワインショップとして起業して数年後、もう交わることはないのかなと思っていた彼からの電話が鳴った。「藤丸さん、独立されたんですね! おめでとうございます。僕もいろいろあったんですが、居酒屋で独立することになりました。ワイン、お願いしますね!」と。
今だから言えるのだが、とても複雑な心境だった。
彼が元気で、独立することはうれしい。でも、フランス料理ではなく居酒屋だった。誤解のないように言っておくけれど、私は居酒屋という業種は偉大だと思っているし、決して見下しているのではない。会社でも居酒屋を始めたぐらいだ。ただ、なぜ、彼が居酒屋なのか、ということが気になった。
その後、彼の店にワインを卸すようになったけれど、私は店に足を運べなかった。会いたいけれど、見たくなかった。フランス料理人ではない彼の姿を。
時間だけが過ぎていった。
その後、私は自分でワインを造るようになり、彼の店である「新橋 工」でも扱ってくれるようになった。自信が持てなくて、自分のワインの感想を聞くのが好きではない私に、彼は電話をかけてきて、「藤丸さん! 藤丸さんのワイン、めちゃ変だけど、めちゃ旨いじゃないですか! ガンガン使わせてもらいます」。
褒められたのか、ダメ出しされたのか、よくわからないけれど、彼の顔を見に行こうと決心した。彼のお店に行って、今の彼の料理を食べたい。彼はちゃんと私のワインと向き合ってくれたのだから、私も今の彼に向き合いたい。
平坦ではない道を通ってきたからこそ出せる料理。
場所は新橋。サラリーマンで溢れかえり、所狭しと居酒屋が立ち並ぶ。少し外れのビルの地下1階。大阪人としては完全なアウェイで、落ち着かない立地だ。そこに、白いコック服からTシャツに正装を変えた以外は何も変わらない親友が立っていた。
店内は大繁盛で満席。カウンターの端っこに入れてもらい、メニューに目を落とす。洋風の料理もあるけれど、居酒屋メニューだった。料理はお任せにして、ワインリストを見ると、自分のワインが解説入りで大きく載っている。びっくりして顔を上げると、そこら中にフジマル醸造所のことを書いたメニューが貼ってあって、さらに驚いた。やり過ぎじゃないかと思ったが、その内容が彼にしか書けない言葉であり、とてもうれしかった。
そうこうしているうちに付き出しが運ばれてきた。また、驚かされた。それは付き出しというより、アミューズブーシュと言ったほうがしっくりくるほどのフランス料理だった。
そうこうしているうちに付き出しが運ばれてきた。また、驚かされた。それは付き出しというより、アミューズブーシュと言ったほうがしっくりくるほどのフランス料理だった。
続く料理たちも、フランス料理と居酒屋のエッセンスと日本の食材が絶妙に交わっている。フランスでキャリアをスタートさせ、決して平坦ではない道を通ってきたからこそ出せる、彼にしか作れない料理だった。
感情を人に見せるのが苦手な私は、いろんな気持ちがこみ上げるのを必死で抑えながら食事を済ませた。実直さと不器用さ、彼は何も変わってなかった。
「今までの人生で一番おいしかったものは何か?」
よく聞かれる質問だ。
私はこの質問に即答することができる。
「四日酔いの時に飲んだタクミの野菜スープだ」と。
感情を人に見せるのが苦手な私は、いろんな気持ちがこみ上げるのを必死で抑えながら食事を済ませた。実直さと不器用さ、彼は何も変わってなかった。
「今までの人生で一番おいしかったものは何か?」
よく聞かれる質問だ。
私はこの質問に即答することができる。
「四日酔いの時に飲んだタクミの野菜スープだ」と。
キュベ パピーユ レイトボトルドデラウェア2016 / 島之内フジマル醸造所
キュベ パピーユとは、大阪の自社ブドウ100%を使用したシリーズ。今でも私と彼を繋いでくれているワインである。日常的に言葉を交わすわけでも近況報告をするわけでもない。でも、私が醸造の仕事をする時は、いつもそれを飲んでくれる、扱ってくれる人たちの顔が思い浮かぶ。だからこそ、嘘のないワイン造りをしたいと思う。遠回りでも不器用でも真っ直ぐなワイン造りを。
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