木桶がなくなる前に、みんなで技を継承しよう~香川・ヤマロク醤油「木桶職人復活プロジェクト」~
2018.03.22
text by Kaori Shibata photographs by Wataru Tadayasu
木桶は単に貯蔵のための器ではない、発酵の要
2018年1月26日、高松港からフェリーで香川県小豆島へ向かった。瀬戸内海を映す窓の外には雪が舞い、“日本の地中海”のキャッチフレーズが虚しいような寒さだ。
行き先は、島の南東側にある醤油蔵、ヤマロク醤油で行われている「木桶職人復活プロジェクト」。ここでいう木桶とは、酒・醤油・味噌などの仕込みや貯蔵に用いる杉材の大桶で、主に20石(3600L)サイズの木桶だ。
プロジェクトの発起人、ヤマロク醤油五代目の山本康夫さんは「木桶は単に貯蔵のための器ではなく、発酵の要である微生物にとって理想的な環境」と言う。
江戸時代に需要が高まり、技術の発達した木桶は、昭和30年代にホーロー(大正時代に登場)、高度経済成長期にはFRP(繊維強化プラスチック)やステンレスに取って替わられた。
このままでは絶えてしまう木桶の製作技術や文化を守ろうと、山本さんは醤油屋自らが木桶の製作側に回り、職人を育て、同業者や職人を巻き込むことを決意。そして、木桶製作の場を、技術や文化の交流、情報を発信するプラットフォームにすることにした。それが木桶職人復活プロジェクトである。
本業の醸造業が最盛期である冬に桶製作を行うのは、木材が最も乾燥し、伸縮が少ないからだ。2013年から毎年1月の1週間をプロジェクト期間として、自社の新桶、他社から発注を受けた新桶の製作を行っている。発注者は、本来競合でもある他の醤油蔵である場合もあるが、これも狙いだ。
「全国で木桶発酵の醤油は1%以下です。その1%のシェアを取り合うよりも、木桶醤油の需要を増やす方が大切です。1%では自分の蔵の木桶は残っても、木桶製作の技術は残りません。技術を残すためには2%、桶の数にして3000本増やすのが目標です。だから、同業者にもどんどん参加してほしい」
5年目を迎えた2018年、参加者は大幅に増えた。訪れた日は5本目の桶の製作中だった。木桶職人、日本各地の醤油蔵、木桶や発酵文化に関心あるメディアや料理家、研究者が約30名参画し、屋外の現場は熱気と活気に包まれていた。
「醤油屋が新桶を発注したのは、戦後初」だと言われて
山本さんが木桶復活のために最初に声をかけたのは、高校時代の同級生で工務店を営む坂口直人さんと三宅真一さんだ。2009年、日本で唯一、竹の箍を用いた大桶を製作する藤井製桶所(大阪)に新桶を発注した際、代表の上芝雄史(うえしば・たけし)氏から「醤油屋が新桶を発注したのは、戦後初だと言われました。うちもいつまで続けられるかわからないから、自分たちでやったらどうだ」と言われたのがきっかけだった。木桶は、約100~150年の寿命で、現存する木桶は戦前に作られたものばかりだ。今、新たに作らなければ、やがて木桶も、その技術もなくなる。それでは手遅れだ。
上芝さんの言葉に危機感を強めた山本さんは、2011年に新たに3本の桶を発注し、製作方法を伝授してもらうべく大阪に赴いた。坂口さんは当時を振り返り「最初、木桶を作りたいと言われた時は冗談かと。でも、木桶の状況を聞いて、これは真剣と思いました。自分は大工なので、木材は馴染みがあるけれど、箍にする長い真竹を削って編むのは難しい。曲線が多いのも、普通の大工仕事とは違うところ」と語る。
2013年、ヤマロク醤油の敷地内に木桶の作業場を設け、有志で木桶製作のメンバーを募った。5人でスタートしたプロジェクトは、今年、日本全国から120名が参加する規模に成長。山本さんら三人はオブザーバー役となり、技術を身につけてほしい若い桶職人に現場の仕切りを任せていた。
実際の工程を見ると、完成した桶からは想像のつかない難しい作業の積み重ねだとわかる。例えば、形状を整えた杉板を縦に並べて円筒型にし、竹釘で板と板を連結して鉄の仮箍でとめる。その後、正式な竹の箍を嵌めるのだが、予測した円径に整えた箍が、いざ嵌めてみると目標の位置まで届かず、一旦外して編み直すといった手戻りは頻繁に起こる。箍を嵌めるのは共同作業で、作業人同士の息が合うのも重要だ。
その昔、桶に箍をかけること、桶そのものを「結桶(ゆいおけ)」と呼んだ。それはすなはち気持ちを合わせることなのだと、その様子を目の当たりにして腑に落ちた。
「木桶は漏れるもの」と山本さんは堂々と言う。木は生きているので、季節によって湿度が高ければ膨らみ、乾燥したら縮む。木桶の伸縮に合わせて、竹の箍も伸縮する。全体が呼吸する生き物のようだ。時を経てば箍は緩み、切れることもある。便利な容器が他にあるのに、敢えて木桶にこだわり続けるのは、人都合ではなく微生物を優先したいからだ。
ヤマロク醤油の蔵で、主と呼ばれる150年以上も使い込まれた木桶は、木桶が器以外の何者かであることを、その圧倒的存在感が伝えてくれる。外側にみっちりと菌が住みついた木桶は神々しく、妖気さへ漂う御神木のようだ。何かが息づく気配が菌なのだろう。森から切られてきた木材は、菌が住むことで、新たな生命体となる。
「同じ醤油の原料を、木桶とそうでない器で発酵熟成させた場合、数値的には同じでも、風味の複雑さや味の奥行きの違いは、明らかに舌で感じることができます」。
科学で明らかにできないものが、微生物の世界にはまだまだあるということか。
木桶作りは未来へのロマン
「木桶職人復活プロジェクト」に参加する司製樽(徳島)の原田啓司さんは、普段は飯桶など、生活周りの樽や桶を作る職人だ。同プロジェクトに参加したのは、「徳島の醤油屋さんから、醤油用の大桶を作れないかと相談されたのです。このプロジェクトの存在も、醤油屋さんから教わりました」と話す。今までの経験則だけでは、大桶の製作は困難だった。
原田さんは今年ようやく一通りの工程をマスターした。プロジェクトに参加するようになってからは、知り合った醤油蔵に現存する木桶を見せて貰い、過去の職人の仕事を考察するようにもなった。
「だんだん作りがわかって来ると、桶を見て、この職人さん凄いとか、箍の編み方がいけているとか、過去の職人さんと対話している気分になります。そして、昔の職人には負けないぞ(笑)という気持ちも。僕らの作った木桶が本当に優れていたかは、ずっと時間が経って、僕らが死んだ後でないとわからない。その時、自分の仕事を未来の職人は、見て学んでくれるだろうかと。木桶作りは、未来へのロマンだと思います」
今年の木桶職人プロジェクトの最終日、原田さんは、同プロジェクトで一緒に学んできた日本一若い桶職人「桶光」(長崎県)の宮﨑光一さんらと、大桶の修理や新桶製作に、通年で対応できるグループ「結い物で繋ぐ会」を作ると発表した。プロジェクトから、大桶を業とする木桶職人が本当に復活したのだ。
秋田からは、日本酒の蔵元、新政酒造で桶職人として昨年初めて採用された桑名雄大さんの姿もあった。
現在、新政酒造は、木桶仕込みの酒を増やしている。将来的には地元の秋田杉を活かす考えだ。同社の木桶回帰は、今の日本酒業界に、木桶が果たす役割を問うきっかけとなるかもしれない。
かつて、木桶の主な需要は酒蔵だった。酒蔵が使用した桶は、醤油蔵、味噌蔵、漬物蔵へと循環したのだ。最近は、日本酒やウィスキーの蔵が、海外の著名なワイン樽で熟成を試みるケースもある。今後は、日本の桶が海外の醸造家の目に止まることもあるだろう。桶は、かつてと異なる循環で新たな価値を提供することになるかもしれない。
瀕死の状況にあった木桶の技術は、手遅れギリギリのところでバトンが渡り、新たなスタート地点に着いた印象だ。行動を起こした山本さんの投げた石は、多方面に広がりを見せている。
プロジェクトに参画した人々の素地は様々であり、「参加した人が、それぞれのやり方で木桶を伝えてくれたらいい」というのが山本さんの考えだ。山本さんの想像の範疇を超えて、全く異なる視点から木桶への関心が起こったケースもある。木桶が結った人と人の繋がりは、今、緩やかな結束で、広がっている。
◎ ヤマロク醤油株式会社
香川県小豆郡小豆島町安田甲1607
http://yama-roku.net/yamaroku/about.html