立ち続けるということ~「ナジャ」米沢伸介さん
藤丸智史さん連載「食の人々が教えてくれたこと」第7回
2016.08.18
連載:藤丸智史さん連載
人生で最初に憧れた人物。
「お師匠さんは誰ですか?」
ここのところ、よく聞かれる質問である。
修業していたレストランなどもよく聞かれるのだが、社員として働いていたレストランで現存する店はない。
そして、師匠となると、これまた返答が難しい。ワインの販売や製造、サービスまで手掛けるようになった今、お手本にしている方が多すぎて、ワインの師匠という質問に的確に該当する方がいそうでいないのだ。「この方が師匠なんです!」って言おうものなら、タイプが違いすぎて、逆に怒られるかもしれない。
ただ、「人生の師匠は?」と聞かれれば、父親と、別にもう一人名前を挙げさせていただきたい。尼崎でもう20年続くワインバー「ナジャ」の米沢伸介さんだ。
米沢さんに最初に会ったのは、私が18歳の頃。まだ高校3年生だった。たいしてやりたいこともなく、割のいいアルバイトを求めてたどり着いたのが、高級ホテルの宴会場の仕事。特に思うところもなくサービスマンとしてスタートしたのだが、当時、その宴会場の飲料を取り仕切っていたのが米沢さんだった。
バシッと決まったソムリエコートに、ホテルマンらしいキリッとした髪形。普段は無口だけれど、お客様と接する時は、その豊富な知識や表現力で、まるでこの世のすべてのワインや料理のことを知り尽くしているかのように饒舌に、でも、囁くようにエレガントに語った。当時、普通の高校生だった私にとって、本当に眩しく素敵に映っていた。間違いなく人生で最初に憧れた人物は米沢さんだ。自分の人生が大きく動き出した瞬間だったのだと思う。
ここのところ、よく聞かれる質問である。
修業していたレストランなどもよく聞かれるのだが、社員として働いていたレストランで現存する店はない。
そして、師匠となると、これまた返答が難しい。ワインの販売や製造、サービスまで手掛けるようになった今、お手本にしている方が多すぎて、ワインの師匠という質問に的確に該当する方がいそうでいないのだ。「この方が師匠なんです!」って言おうものなら、タイプが違いすぎて、逆に怒られるかもしれない。
ただ、「人生の師匠は?」と聞かれれば、父親と、別にもう一人名前を挙げさせていただきたい。尼崎でもう20年続くワインバー「ナジャ」の米沢伸介さんだ。
米沢さんに最初に会ったのは、私が18歳の頃。まだ高校3年生だった。たいしてやりたいこともなく、割のいいアルバイトを求めてたどり着いたのが、高級ホテルの宴会場の仕事。特に思うところもなくサービスマンとしてスタートしたのだが、当時、その宴会場の飲料を取り仕切っていたのが米沢さんだった。
バシッと決まったソムリエコートに、ホテルマンらしいキリッとした髪形。普段は無口だけれど、お客様と接する時は、その豊富な知識や表現力で、まるでこの世のすべてのワインや料理のことを知り尽くしているかのように饒舌に、でも、囁くようにエレガントに語った。当時、普通の高校生だった私にとって、本当に眩しく素敵に映っていた。間違いなく人生で最初に憧れた人物は米沢さんだ。自分の人生が大きく動き出した瞬間だったのだと思う。
「なんだ、これ? これもワインなの?」
そこで働くサービスマンの先輩たちにすっかり憧れてしまった私は、その後、まともに大学にも行かず、宴会場のアルバイトに精を出した。カバンの中には教科書ではなく、いつもソムリエ教本が入っていたくらい、仕事やワインが大好きになった。
そんなアルバイト漬けの日々が2年ほど過ぎた頃、転機が訪れる。今でもはっきりとその光景を覚えているのだが、アルバイトに向かう電車で偶然向かい側に座った米沢さんが「俺、独立するからホテル辞めるねん。また、遊びに来てなー」と。青天の霹靂とはこのことかと本当にショックだったのだが、ここから運命がさらに動き出した。
米沢さんが店をオープンした場所は、なんと、私の家から徒歩1分の場所だった。こんな奇跡みたいなことがあるのだろうかと、早速、先輩たちと訪問したのだけれど、その店「ナジャ」の設えや音楽、サービス、料理、ワイン、どれをとっても20歳の私にはかなり刺激的だった。海外に行ったことはなかったけれど、「ここ」が日本でないことは確かだった。
そして、ナジャで最初に飲んだワインは南仏のアリカンテ・ブーシェという品種がブレンドされたものだった。そう、20年経っても覚えている。それぐらいインパクトがあった。でも、実は「おいしい!」ではなくて、「なんだ、これ? これもワインなの? え? 今まで飲んできた赤ワインと全然違う……」。ワインには星の数ほどあって、同じフランスワインでも、いろんな味わいがあることを知った。ワインへの強い興味が生まれた瞬間だった。
そんなアルバイト漬けの日々が2年ほど過ぎた頃、転機が訪れる。今でもはっきりとその光景を覚えているのだが、アルバイトに向かう電車で偶然向かい側に座った米沢さんが「俺、独立するからホテル辞めるねん。また、遊びに来てなー」と。青天の霹靂とはこのことかと本当にショックだったのだが、ここから運命がさらに動き出した。
米沢さんが店をオープンした場所は、なんと、私の家から徒歩1分の場所だった。こんな奇跡みたいなことがあるのだろうかと、早速、先輩たちと訪問したのだけれど、その店「ナジャ」の設えや音楽、サービス、料理、ワイン、どれをとっても20歳の私にはかなり刺激的だった。海外に行ったことはなかったけれど、「ここ」が日本でないことは確かだった。
そして、ナジャで最初に飲んだワインは南仏のアリカンテ・ブーシェという品種がブレンドされたものだった。そう、20年経っても覚えている。それぐらいインパクトがあった。でも、実は「おいしい!」ではなくて、「なんだ、これ? これもワインなの? え? 今まで飲んできた赤ワインと全然違う……」。ワインには星の数ほどあって、同じフランスワインでも、いろんな味わいがあることを知った。ワインへの強い興味が生まれた瞬間だった。
追い付ける気がしない。
しばらくすると、ナジャのカウンターの内側で働くようになっていた。昼間はホテル、夜はナジャでアルバイトを続けた。稼いだお金はおそらくほとんどナジャでの飲み代に消えた。何も知らない学生アルバイトが最先端のワインバーで働くのだから、そりゃもう、たくさん叱られはしたが、そんなことより、凄い種類のワインと出会えることが何より楽しかった。
ただ、米沢さんの横に立って初めて気付いたことがあった。カウンターサービスが中心だからお客さんと会話することが非常に多いのだけれど、師匠が詳しいのはワインだけではないということだ。日本酒やビールなどワイン以外の酒にも造詣が深く、そして、こと音楽に関しては音楽プロデューサーでもやっているのではないかと思うほど詳しかった。
ナジャのカウンターは毎晩、酒、料理、音楽談議で盛り上がった。とても上品で大人の世界で、自分は到底そこにたどり着ける気がしないぐらい遠い世界の会話だった。
ある時、思わずつぶやいてしまったことがある。「僕が米沢さんの年齢になったとして、ワインだけとっても、米沢さんに追い付いている気がしない」。師匠は「藤丸が今のペースで勉強していたら、俺ぐらいすぐに追い越せるよ」と返してくれた。20年経った今でも、その差が縮まるどころか、さらに離されているように感じるのは気のせいではないだろう。
ただ、米沢さんの横に立って初めて気付いたことがあった。カウンターサービスが中心だからお客さんと会話することが非常に多いのだけれど、師匠が詳しいのはワインだけではないということだ。日本酒やビールなどワイン以外の酒にも造詣が深く、そして、こと音楽に関しては音楽プロデューサーでもやっているのではないかと思うほど詳しかった。
ナジャのカウンターは毎晩、酒、料理、音楽談議で盛り上がった。とても上品で大人の世界で、自分は到底そこにたどり着ける気がしないぐらい遠い世界の会話だった。
ある時、思わずつぶやいてしまったことがある。「僕が米沢さんの年齢になったとして、ワインだけとっても、米沢さんに追い付いている気がしない」。師匠は「藤丸が今のペースで勉強していたら、俺ぐらいすぐに追い越せるよ」と返してくれた。20年経った今でも、その差が縮まるどころか、さらに離されているように感じるのは気のせいではないだろう。
偏見を持たずに、中身で判断する。
そして、今になって改めて、米沢さんの仕事の意義をさらに強く感じるようになった。
当時のホテルでサーブされていたワインは、ボルドーやブルゴーニュの大手メーカーの品が大半だったけれど、よく知られた名前ばかり、味の割に価格が高いものが多かった。
そんなボルドー全盛期に、そのホテルの宴会場では南仏ラングドック地方などの名もない生産者のワインが多く提供されていた。理由は明快。「安くておいしいから」だ。実際にサーブしていて、お客さんからの評判は圧倒的に南仏のワインの方が良かった。後にそのラングドックの生産者たちはスーパーラングドックと呼ばれ、あっという間にスターになった。もちろんナジャも開業当初から南仏のワインは豊富にストックされている。
米沢さんから教わった中で一番大きかったのは、「先入観で飲まない」ということだと思う。
私は、オープン以来もう20年近く通う常連でもあるのだけれど、グラスでワインを注文すると、私が銘柄や品種や感想を言うまで、絶対に何を飲んでいるかを教えてくれない。要は、頼んでもないのにブラインドテイスティングをもう20年もさせられていることになる。そして、まずは先入観なく飲み、自分なりの判断をすることをトレーニングしている(させられている)のだ。名声や評判、ラベルで飲むのではなく、偏見を持たずに中身で判断しなさいということを強制的に叩き込まれたわけである。
新しいワインに出会うとまた一つ知識欲が満たされ、成長した気になっている、そんな小賢しい若者に、師匠は常に厳しく接してくれていたのだった。仕事で疲れて何も考えたくない時ですら、ラベルを先に見せてくれることはなく、イラッとしたこともあったが(笑)、いまや自分の中で大きく占める財産だ。
それは、現在のFUJIMARUのセレクトや仕事の流儀の軸でもある。目を閉じて、自らが勝手に思い込んでいる様々な制約を取り外して考えてみれば、意外とシンプルで迷う選択肢すらないことの方が多い。こんな香りだろう、とか、こんな味がするはず、と思い込んでしまうと、逆に見えなくなってしまうものがある。
あれから20年。師匠はずっとカウンターの内側に立ち続けている。差は開く一方である。
当時のホテルでサーブされていたワインは、ボルドーやブルゴーニュの大手メーカーの品が大半だったけれど、よく知られた名前ばかり、味の割に価格が高いものが多かった。
そんなボルドー全盛期に、そのホテルの宴会場では南仏ラングドック地方などの名もない生産者のワインが多く提供されていた。理由は明快。「安くておいしいから」だ。実際にサーブしていて、お客さんからの評判は圧倒的に南仏のワインの方が良かった。後にそのラングドックの生産者たちはスーパーラングドックと呼ばれ、あっという間にスターになった。もちろんナジャも開業当初から南仏のワインは豊富にストックされている。
米沢さんから教わった中で一番大きかったのは、「先入観で飲まない」ということだと思う。
私は、オープン以来もう20年近く通う常連でもあるのだけれど、グラスでワインを注文すると、私が銘柄や品種や感想を言うまで、絶対に何を飲んでいるかを教えてくれない。要は、頼んでもないのにブラインドテイスティングをもう20年もさせられていることになる。そして、まずは先入観なく飲み、自分なりの判断をすることをトレーニングしている(させられている)のだ。名声や評判、ラベルで飲むのではなく、偏見を持たずに中身で判断しなさいということを強制的に叩き込まれたわけである。
新しいワインに出会うとまた一つ知識欲が満たされ、成長した気になっている、そんな小賢しい若者に、師匠は常に厳しく接してくれていたのだった。仕事で疲れて何も考えたくない時ですら、ラベルを先に見せてくれることはなく、イラッとしたこともあったが(笑)、いまや自分の中で大きく占める財産だ。
それは、現在のFUJIMARUのセレクトや仕事の流儀の軸でもある。目を閉じて、自らが勝手に思い込んでいる様々な制約を取り外して考えてみれば、意外とシンプルで迷う選択肢すらないことの方が多い。こんな香りだろう、とか、こんな味がするはず、と思い込んでしまうと、逆に見えなくなってしまうものがある。
あれから20年。師匠はずっとカウンターの内側に立ち続けている。差は開く一方である。
ドメーヌ・レグリエール
ナジャファンなら知らない人はいないであろう、米沢さんが惚れ込んだスーパーラングドック。娘さんに代替わりして雰囲気は変わったけれど、今もすばらしいワインを醸し続けている。ナジャにはこの造り手の木箱が所狭しと並んでいるが、その数が何とも恐ろしい。ナジャで飲んだワインはたくさんあれど、香りが鼻腔に染みつくほど飲んだのはこのワインだけだと思う。私にとっては青春のワイン。
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