とろけるようなチーズを生む牝牛たちの「無血の闘い」
Vol.84 ヴァッレ・ダオスタ自治州のフォンティーナ生産者
2026.05.14
text by Paolo Massobrio / translation by Motoko Iwasaki / photograph by Archivio Regione Autonoma Valle d'Aosta
一つのチーズが、地域のアイデンティティーとしてこれほど大きく存在している州が他にあるだろうか。今回の舞台はヴァッレ・ダオスタ自治州だが、フォンティーナといえばヴァッレ・ダオスタであり、旨いフォンティーナの一切れを口に含めば、たちまちそれを育んだ牧場の緑とアオスタ渓谷の山々が目に浮かぶ。
フォンティーナチーズといえば、その名は世界中に知られているし、その知名度に匹敵する値も十二分に備わっている。その品質を守る厳しい生産規則の制定は1955年にまで遡るが、(文献によると13世紀にはこの規則の原型が既に存在していたらしい)、特にチーズの原料となる牛乳に関しては、ヴァルドスターナ・ペッツァータ・ロッサ種(“ペッツァータ”は斑点の意味で、赤みがかった斑点模様のある品種)、ヴァルドスターナ・ペッツァータ・ネーラ(黒い斑点がある品種)、そしてヴァルドスターナ・カスターナ種(斑点はなく、全体に茶色、赤みがかった茶、または黒色をした品種)の3品種の牛から得た乳のみで生産する必要がある。
アオスタでは家畜がアルペッジョ(山岳部の放牧地)で過ごせる夏は短い。だが、この期間にこれら3品種から得られる乳は、濃厚な味わいで生草や花の香りがあり、色は藁のような黄色味を帯び、食感もソフトで口にすればすぐにとろけるような特質をフォンティーナに授けてくれる。
そして、まさにこのアルペッジョで過ごす時期に牝牛たちと酪農家には深い関係が生まれ、結果、酪農家は牛の一頭一頭の性格を知り尽くし、名前で呼ぶまでになる。
特にヴァルドスターナ・ペッツァータ・ネーラ種やヴァルドスターナ・カスターナ種は、アルペッジョでのテリトリー支配欲が強いという性質があることを見抜き、太古の酪農家たちは、これを利用して闘牛を組織してきたことを諸君はご存知だろうか。地元で言われるところの「バターユ・ド・レーヌ(Batailles de Reines 訳注:ヴァッレ・ダオスタ自治州はフランス語も公用語)」つまり「女王たちの闘い」のことを。
妊娠中の牝牛が巨体をぶつけ合うトーナメント
これは州全体を巻き込んで開催される直接対決の大真面目な勝ち抜き戦で、3月末に開幕し、アルペッジョに行っている夏の数カ月を除き、毎週日曜日に開催される。体重により3つのカテゴリーに別れて闘うが、レーヌつまり牝牛たちは、角は用いても、相手を傷つけて出血させずに闘わなければならない。また、本来のアグレッシブな気性を抑制するため、参加資格には妊娠しているという条件がある。
巨体と巨体のぶつかり合う無血の闘いという点からも、また負けた牛は潔く自分の力より勝る牛を残して闘牛場を後にする点でも、少し相撲に似ているかもしれないな。僕たち人間よりずっと賢い。そしてこの伝統行事のことを知らないよそ者が、決勝戦が行われるアオスタのアリーナに足を踏み入れれば、その強烈な熱狂ぶりに度肝を抜かれるはずだ。
1977年生まれのステファノ・モスクェット(Stefano Mosquet)は、素晴らしいフォンティーナの生産者であり、2006年には彼の牝牛「トネール(Tonnerre: 雷鳴の意)」が、この「女王たちの闘い」で優勝を飾ったという生粋のヴァルドスターノ(アオスタ人)だ。彼に話を聞いた。
「僕は、黒のカスターナ種とペッツァータ・ロッサ種を併せて70頭飼育しています。夏場はヴァルグリザンシュ(Valgrisenche)という渓谷の標高2300メートルの地点にあるフォルチャズ(Forciaz)というアルペッジョで放牧を行っていますが、人の往来も少なく、自然と静けさを愛する人にはうってつけのところですよ。父と母はレストランを経営していましたが、僕は幼いころから牛と共に暮らしていこうと決めていました。12歳から夏の放牧の仕事に参加し始めました。単純作業の繰り返しと思われるかもしれませんが、僕にはその仕事が楽しくて仕方ありませんでした。
その当時のアルペッジョの施設はそれは酷いものでしたよ。お湯もなければシャワーや風呂もない。今では、改築されてかなり楽になりましたけどね。そんな環境でも僕の酪農好きな気持ちが変わらないのを見て、父のロマーノ(Romano)は、僕が中学を卒業するのを待って家畜を購入し、僕と一緒に酪農を始めることにしたんです」
乳牛を飼い、チーズをつくり、すべて自力で売る
「乳牛を飼うことが僕の喜びです。ペッツァータ・ロッサ種は乳量はありますが、黒色のカスターナ種がもつ荒い気性と活力が僕にはより大きな満足を与えてくれます。乳量は少し落ちますが、体が丈夫でその分コストが比較的安くなる、それに・・・バターユに参加して勝つのを見る喜びは他には代えがたいものがあります。
アルペッジョにいるとき以外は、標高900メートルにあるブリッソーニュ(Brissogne)に本拠地があり、チーズ工房や熟成庫もあるので、そこで暮らしています。一方、アルペッジョには自然に形成された洞穴があり、そこでチーズを熟成させています。6月の終わりから10月まで、アルペッジョに上りますが、ブリッソーニュから50キロの距離にあるため、家畜の移動にはトラックを利用します。
チーズは年間を通して毎日生産していますが、生産に利用しているのは我が家で生産される生乳のみです。地域の酪農家のうち8割は、冬場になると牛乳を生産者協同組合に販売しますが、僕たちは冬場も自力でチーズを生産し続けることにしました。原料が生産された場所で加工する、つまり生産から加工まで地産地消を心がければ、製品に命が宿るからです」
1日2回の搾乳から得る生乳で彼らが手作業で生産するチーズのうち、最も重要な製品は「フォンティーナDOPアルペッジョ」、その他に年間を通じて生産される「フォンティーナDOP」、洞穴で180日以上熟成させた「長期熟成フォンティーナDOP」があり、中には3~4年も熟成させるものもある。年間の生産個数は約4000個で、一個あたり7.5~10キロに及ぶ。これを卸売業者は介さず、全てを自力で売りさばく。9月から12月にはファーマーズマーケットなど市場に出店し、僕たちの主催する食の祭典「ゴロザリア」の常連となっているほか、食材店やレストランにも卸している。
ステファノには二人の息子がいて、シルヴェン(Sylvain)は農業高校で勉学中、時間を見つけて父親を手伝っている。もう一人の息子ヴェンサン(Vincent)は木工業の道を選び修業を積んでいる。
「息子には強要は一切していません。肝心なことは、他の子たちが得られるのと同じ選択の機会を親として僕が保証してやるということでしょう。
僕は平穏な人生を送れていると思います。好きな仕事をしているし、結局のところ必要なものは揃っていますから。牛乳にチーズとお肉が少しずつ。
世界が危機的状況にある今日ですが、僕にはそれに立ち向かう準備もできています。欲しいものは特にないですが、あるとすれば一つかなぁ・・・もう一度だけ僕の牛が『女王たちの闘い』の決勝に出て勝つのを見たいなあ」
そう言うとステファノは、まるで優勝カップを手にしたかのような大きな笑顔を僕に見せた。
◎AZIENDA AGRICOLA STEFANO MOSQUET
Fraz. Grand Brissogne, 106
BRISSOGNE (AO)
Tel. 334 3762244
パオロ・マッソブリオ Paolo Massobrio
イタリアで30年に渡り農業経済、食分野のジャーナリストとして活躍。イタリア全州の優れた「食材生産者」「食料品店」「ワイナリー」「オリーブオイル」「レストラン」を州別にまとめたベストセラーガイドブック『Il Golosario(イル・ゴロザリオ)』を1994年出版(2002年より毎年更新)。全国に50支部6000人の会員をもつ美食クラブ「クラブ・パピヨン」の設立者でもある。
https://www.ilgolosario.it/it
『イル・ゴロザリオ』とは?
イタリア全州の優れた「食材生産者」「食料品店」「オリーブオイル」「ワイナリー」を州別にまとめたガイドブック。1994年に創刊し、2002年からは毎年更新。全965ページに及ぶ2016年版では、第1部でイタリアの伝統食材の生産者1500軒を、サラミ/チーズ/肉/魚/青果/パン及び製粉/パスタ/米/ビネガー/瓶詰め加工品/ジャム/ハチミツ/菓子/チョコレート/コーヒーロースター/クラフトビール/リキュールの各カテゴリーに分類して記載。第2部では、1部で紹介した食材等を扱う食料品店を4300軒以上、第3部はオリーブオイル生産者約700軒、第4部ではワイン生産者約2700軒を掲載している。
数年前にはレストランのベスト・セレクション部門もあったが、現在では数が2000軒以上に達したため、単独で『il GattiMassobrio(イル・ガッティマッソブリオ)』という一冊のレストラン・ガイドとして発行するようになった。
(『Il Golosario』はパオロ・マッソブリオの作った造語ですが、この言葉はイタリア人なら一見して意味を理解し、口元に笑みを浮かべる人も多いでしょう。『Goloso』という食いしん坊とか食道楽の意味の言葉と、『dizionario(辞書)』、『glossario (用語集)』など言葉や情報を集めて一覧にしたもの示す語尾『−ario』を結んだものです。食いしん坊の為においしいものをそこらじゅうから集めてきたという少しユーモラスな雰囲気の伝わる言葉です。)
私たちの出発点である雑誌『料理通信』は、2006年に「Eating with creativity ~創造的に作り、創造的に食べよう」をキャッチフレーズに誕生しました。
単に「おいしい、まずい」ではなく、「おいしさ」の向こうにあるもの。
料理人や生産者の仕事やクリエイティビティに光をあてることで、料理もワインもお菓子も、もっと深く味わえることを知ってほしいと8人でスタートした雑誌です。
そして、国内外の様々なシェフや生産者を取材する中で、私たちはイタリアの食の豊かさを実感するようになりました。
本当の豊かさとは、自分たちの足下にある食材や、それをおいしく食べる知恵、技術、文化を尊び、受け継いでいくこと。
そんな志を同じくする『イル・ゴロザリオ』と『料理通信』のコラボレーションの第一歩として、2016年にそれぞれのWEBメディアで記事交換をスタートしました。
南北に長く、海に囲まれた狭い国土で、小規模生産者や料理人が志あるものづくりをしている。
イタリアと日本の共通点を見出しながら、食の多様性を発信していくことで、一人ひとりが自分の足下にある豊かさに気づけたら、という願いを込めてお届けします。
『イル・ゴロザリオ』で公開されている『料理通信』記事はコチラ
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