日本の地方旅館の未来を描こう。熊本・黒川温泉に「地域のパン屋」誕生。
2024.11.13
photographs by Mototsugu Maeda
2024年9月30日、熊本県阿蘇郡南小国町の黒川温泉街に、パンとコーヒーの店「Au Pan & Coffee(アウパン&コーヒー)」がオープンしました。コンセプトは「地域のパン」。プロデュースしたのは、徳島・神山町で農業を柱とした地域活性を手掛けてきた株式会社フードハブ・プロジェクトです。わずか19坪の店舗ですが、その小さな空間に込められた地元からの期待は大きい。人手不足が加速する黒川温泉旅館全30軒の「泊食分離(はくしょくぶんり)」を担う一号店、宿泊客の「食」を賄う8棟の飲食施設「Au Kurokawa(アウ・クロカワ)」の旗艦店なのです。
目次
「地域のパン屋」オープン!
視界を遮るものはない。周囲360°を山に抱かれた立地はどこまでも目に心地よく、約3000坪の敷地には8棟が点在する。そのうちの1棟、2024年9月末にオープンした「アウパン&コーヒー」は黒川温泉の泊食分離プロジェクト「Au Kurokawa(アウ・クロカワ)」の第一号店だ。
「泊食分離」とは、地域の飲食店と連携して、宿泊施設と食事の提供を分離する宿泊形態のこと。インバウンドで訪日客が増える中、多様なニーズに適う食事の提供と、高齢化と人手不足が加速する地方の温泉旅館の打開策として、全国の温泉地やホテルで取り組みが進んでいる。
「アウパン&コーヒー」のオーナーは黒川温泉の観光旅館組合の組合長で「奥の湯」主人でもある音成貴道さん。店づくりをサポートしたのは、徳島県神山町で“地産地食”のシステムづくりに取り組むフードハブ・プロジェクトのメンバーたちだ。ミッションは「アウ・クロカワ」の起点となる店づくり。地域に根ざす「パン屋」の設立である。
店内に並ぶのは食パンやバゲット、惣菜パンから菓子パンまで常時30~35種類。生地に使う小麦は九州産「ミナミノカオリ」をメインに、一部北海道小麦や全粒粉を5種類ブレンドし、卵、牛乳、具に使う野菜や肉加工品は、地元熊本県黒川温泉郷周辺の生産者の食材を使用する。
米油と地元阿蘇の大地が育んだ「山のいぶき」のジャージー牛乳を100%使った食パンや、菊池市のハム工房「TONG TONG」のベーコンを包んだジューシーなベーコンエピのほか、地元の農家から仕入れる旬のサツマイモやニンジンのローフ、郷土料理にインスパイアされた「辛子レンコンカレーパン」など、地元の野菜を練りこんだ惣菜パンも豊富。どれも素朴で親しみのある、毎日でも食べ疲れしない素直な味わいのパンだ。
「1泊2食」より「素泊まり」の時代
熊本県黒川温泉は、湯布院、別府を抱える九州の中では比較的小さい規模の温泉地。全30軒の旅館の温泉の泉質は各旅館が独自の源泉を引き、それぞれが異なる成分をもつため湯治や湯めぐりに多く訪れる。古くからある石畳の道と木造建築、自然豊かで統一感のある情緒的な景観は、若い訪日客にも人気の地だ。熊本や別府市街から車で1時間30分という立地ながら、1年で約100万人が訪れる。
泊食分離は2017年に宮城県鳴子温泉が地元飲食店と連携し、客室で里山料理を楽しめるケータリングサービスを始めたことで話題になったが、近年では北海道の登別温泉や長野県の浅間温泉と各地で導入する温泉地が相次ぐ。だが、旅館自ら飲食店の施設から新たに作ってしまう事例はまだ珍しいだろう。
「7年前、父から旅館を引き継いだ時から言われていたのが“人手不足への対策”でした。これから日本全体の人口も減っていく。自分のところだけがよくなることはない。何をすべきか時間をかけて考えておきなさいと」と「奥の湯」を継いだ二代目の音成さん。
接客を伴うサービス業は、対人ストレスの精神的負担が大きい。端末操作に慣れた現代人にとってはなおさらだ。長時間労働や不規則なシフトもそれに拍車をかける。「コロナ禍で宿泊業を離れた人たちも、まだ戻りきっているとはいえません」。和食懐石の提供が多い旅館では、和食を志す料理人が減少傾向にあることも痛手だという。
「『アウ・クロカワ』を作ることで、旅館側は『1泊2食』の厨房運営の負担を解消し、お客様は食の選択肢が増やせる。素泊まりが増えることで、宿の稼働率も上げられます」。2022年、事業再構築補助金を申請し、採択された。
回り道でも、意志が生まれる環境を
一方のフードハブ・プロジェクトのメンバーにとって、パン屋のプロデュースは初めてのこと。相談を受けた代表の真鍋太一さんは、「最初はお断りしました。私たちには難しそうだなと。でも例えば、コーヒーを焙煎してドリップコーヒーとして客室に提供する、あるいはパン屋として朝食を提供する。そんな形なら力をお貸しできるんじゃないかと思いました」。黒川でパン屋を一緒に作ることが、地方旅館が抱える課題解決の一助になることも考えたという。「かまパン」でパンの製造を担う笹川大輔さんからも前向きな返答を得たことから、ベーカリーのプロデュースという形でスタートする。
フードハブ・プロジェクトのチームづくりは徹底した対話にある。求めるのは“すべてに意志が生まれる環境づくり”。合宿やロングミーティングを実施し、現場に集い、体験を伴い、それぞれが腹落ちした意識を共有する。旅館のオーナー、建築、外構、インテリアデザインなど、関係者全員でイメージを丁寧に浸透させながら、集中的に時間を使い、判断を固めていく。
2024年1月には神山で合宿を行った。「『かまパン』のテストキッチンで料理を作り、パンとワインの会を実施して、実際の旅館の食事を想定しながら食べていただきました」。翌月には黒川でも3泊4日の合宿を実施。小国郷周辺の生産者を訪問し、集めた食材で地元住民30~40人を招いた試食会を開き、毎日食べたいと思えるパンについて意見を交わした。
照明ひとつ、室内デザイン一つとっても見た目だけの“格好良さ”に価値をおかない。「例えば店頭のロゴ、真鍮のデザインでもそれらしいものはできます。でも地元阿蘇には北川麦彦くんという素晴らしい陶芸アーティストがいる。チームの担当者が彼の工房を訪れ、制作過程を見学し、作品に触れながら話をすることで自然にできる形が見えてきます」。直接の対話と経験を通して能動的に形づくられるものが、フードハブ・プロジェクトの価値観を支える。
チームが訪問した視察先は19カ所。牛乳やチーズを造る牧場や牛の生産者、野菜の生産者やハーブ園、ワインショップなど食材だけでなく、小国郷の暮らしを支える地元の木材工場や陶器の窯、カフェや地元のパン屋、道の駅やスーパーや雑貨店も廻った。「感じたのはやはりどの場所にも素晴らしい作り手さんはいるということ。私たちができることは彼らを探し出して、パン屋という機能を使い、できることなら有機的な繋がりをもって、社会へ大きく広げていく役割なのかなと」
関係はドライに終わらせないのもチーム流だ。付き合いが始まった生産者とのやりとりはなるべく頻繁に行い、受発注だけの関係では終わらせない。
「大根が採れたからパンにしてくれって付き合いのある農家さんが訪ねてきたりね。大根は難しいなぁ、なんて言って(笑)」と笹川さん。真鍋さんがインスタグラムで上げる#(ハッシュタグ)「今日の川上さん」も神山で懇意の生産者さんだ。投稿を京都に住む孫が楽しみにしてくれているのだと聞かされた。
店が掲げる「地域のパン」の意味するところは、パンや店がコンセプトありきで進行するのではなく、土地にいる人や食材を並べて「さぁどんな店ができるか、どんなパンが焼けるか」と腕まくりして始めるということ。コンセプトとパンづくりの主従がない。「事業より前に“人”がいる。こうじゃなきゃやらない、という一貫性より、今いる人たちと関わって作ること、それも“ちゃんと”関わることが大事なんです」と、口を揃える。
パン屋はもっと、気楽でいい
店舗スタッフを募集する際、あえて製パン経験は不問にしたという笹川さん。「未経験者だけの店にしたかったんです。立ち上げには僕も伴走するけど、最終的には自走できるチームにする必要がある。そのためには求人から製パンの経験はなくして、自ら問いを立てながら答えを探っていく力のあるチームにしたかった」。集まったのは、元エンジニア、元コーヒー焙煎士、元ITコンサルタント。そこに神山フードハブ・プロジェクトが運営する食堂で働いていた女性が1名加わり、男女各2名ずつ計4名での運営となった。
オープン前、スタッフたちは神山で1カ月の研修を受け、一日の終わりには1時間の振り返りミーティングを行った。その日起きたこと、気になったことをすべて洗い出し、翌日からできることを考える。「とても1時間ではたりません」。避けたいのは指示待ちの姿勢。正解は空から降ってくるものではない。自ら探し出す。「スパルタです」と笑う。
笹川さんは自らを「パン屋」と呼ぶ。「“パン職人”って技術をもって求められるものを作るイメージですが、僕はある素材でパンを焼く“パン屋”。もっと気楽なものでいい」
不思議なブレイクスルーがある。父は「紀伊国屋」のパン職人で、自身も18歳から自然と業界に身を置いてきた。だが、自分が描くパン屋の将来が見えず、悶々とする日々が続いた。「僕は世にない新しいパンを作り出すタイプじゃない」。そのためか、自分のパン作りがどこか他人事のようで、物足りなさを感じていた。知人から勧められたフードハブ・プロジェクトの仕事を始めてからも、しばらくは自分のパンをおいしいと思えなかったという。「でも、あるきっかけで自分のレシピだと思えるようになったんです。その時初めて自分の焼くパンを『おいしい』と感じられました」
先輩ベーカリーの助言で、ただ意識を変えた。レシピが何を意味するか、その食材がどんな役割を果たすのか真剣に向き合った。すると製造のプロセスが次々と腑に落ちるようになった。「目に見えるレシピは何も変わりません。でも確実においしくなったし、事実『かまパン』の売り上げも上がっていきました」
この経験上、主体性をもって仕事をすることの大切さが身に染みている。折に触れて「どうしたらいいと思う?」とスタッフへ問い続ける。「あーせぇこーせぇは言わない。常に聞きます。『どう思う?』『どうしたらいい?』、時には『なぜ君はここにいるの?』。答えは自分の手で掴みにいかなきゃ絶対に見つからない」
移住者と対話を重ねる
関係性を大事にしながら進めていくフードハブのプロデュース業。直線的ではなく、一見周り道が多そうに思えるが、着実に前進させる力がある。
「アウパン&コーヒー」は開店から3年はフードハブ・プロジェクトが伴走する契約だが、オーナーの音成さんは、彼らの手が離れた後も運営が円滑に進むよう、毎日店に顔を出し、スタッフの話に積極的に耳を傾ける。
「彼らから学んだことはロングミーティングをこなす体力(笑)。そして、人との関わり方です。考えてみれば私たち旅館業も従業員はほとんどが移住者です。彼らは街の右も左もわからなかったはず。本来なら働き方や暮らしの悩みに真剣に向き合い、ともに宿を運営することが必要だった。その視点が我々には欠けていたのではと思い至りました」。黒川温泉の旅館の業務を担う面々は現在70歳以上が多く、若者の多くは東南アジアからの移住者である。
フードハブの初プロデュース「アウパン&コーヒー」のプレオープンには120人が来場。オープン前から、地元関係者全員と重ねた時間で、土壌は耕されている。地元住民との絆も深まりつつあり、フィードバックも率直にもらえる関係だ。
過疎化が進む南小国町の人口は2024年現在、約3,800人。働き手と訪日客の数が反比例する中、地方の温泉地には、温泉にとどまらない街全体の総合力が求められる。そして、旅の目的で不動の一位は、「おいしいものを食べること」。宿泊客が宿にこもらずに、街に出かけてお金を使えば、地域は活性化する。殻を破った地方旅館は温泉を呼び水に、様々な業態の関係者と対話しながら総合力を上げていくことだろう。可能性に満ちている。
▼黒川温泉を支える飲食店「アウ・クロカワ」では、現在、出店希望を受付けています。「旅館と連携しますので、客席は必ず1回転はします。それが営業保証の代わりです。温泉で疲れも癒えます」と音成さん。詳細はinfo.aukurokawa@gmail.comまで。
◎Au Pan & Coffee(アウパン&コーヒー)
熊本県阿蘇郡南小国町満願寺6777-3
9:00~17:00
水曜、木曜休
☎0967-44-1300
Instagram:@aupan_coffee
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