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PEOPLE / 寄稿者連載

「珈琲の表現」とは?

蕪木祐介さん連載 「嗜好品の役割」第1回

2019.06.06

PEOPLE / LIFE INNOVATOR

連載:蕪木祐介さん連載

珈琲の力

美味な珈琲には人の心を調える、不思議な力がある。朝に丁寧に淹れる珈琲は清々しい心持ちとさせてくれるし、少し気持ちが滅入った時に喫茶店で飲む珈琲は、弱り、乱れた心を鎮めてくれる。心地良い苦味と酸味、そして豊かな芳香。それらを口に含み、味わっていくごとに、気持ちが穏やかに調っていくのがわかる。他にも様々な役割があるだろう。時にはコミュニケーションの潤滑剤になるし、気持ちを引き締める珈琲もある。



美味しい珈琲とは?

「美味な珈琲」とは言うが、いつ、どこで、誰と、どのような感情で飲むか、そして飲み手の育った環境や食経験、それらによって美味しさは容易に変化する。だから、珈琲屋のカウンターに立ちながら、「どのように淹れれば美味しくなりますか」とお客様から聞かれた時、答えるのが難しかった。

一言ではお伝えできないその答えを綴ったのが4月に上梓した、『珈琲の表現』(雷鳥社)という本である。自身の店で表現したい風味は明確なイメージや考えがある。けれど、お客様が家で珈琲豆を使って、どのように淹れるか(調理するか)はもっと自由であるべきで、それぞれの感情に合わせて珈琲を淹れることができたら嬉しいと思い、書き進めるにあたった。苦くとも酸っぱくとも、濃くても薄くても、皆さん基準の美味しい珈琲が淹れられたら、それはなんと愛しいことだろう。





美味しいという感情は自分の中にあるもの。誰がどこでどのように作ったものであろうが、美味しいものは美味しいし、口に合わないものは合わない。市場には美味しさの所以を云々と説明された物が多く溢れているが、たくさんの情報や行き過ぎた味の解説と共に味わうのはどうも味気なく無粋だ。知っていて深まる味はあるかもしれないが、食べて、飲んで、「あぁ、美味しい」と、単純にそう感じるのが何よりではないか。

先日、尊敬している大先輩とお話をしていた際に「日本人は他人の評価を気にしすぎる」と聞いて、甚だ同感した。フランスで仕事をしていた彼がおっしゃるには「フランス人は誰がなんと言おうと、自分基準で好きなものを食べる人が多かった」とのこと。

日本人が他人を気にするという気質はとても好きではある。少ない言葉で察し、気遣いあう日本人を誇りに思っている。だが、確かに他人の評価やランキングなど、気にしすぎではなかろうか。メディアや著名人の発言や、何某の点数や不特定多数の評価に美味しさの基準まで振り回されて右往左往する姿は、一歩引いてみると滑稽にすら感じる。美味しさを他に委ねず、自分なりの小さな工夫を重ねて良いものをさらに良いものとし、流行り廃りに流されない自身の味を深めることこそ、奥ゆかしいことではなかろうか。



東京で喫茶室を

自己紹介が遅れてしまったが、私は東京・台東区の下町で珈琲とチョコレートを作っている。東京オリンピックを目前にした今の時期はちょっとした不動産バブル。土地の値段が上がり、ようは売り時である。そんな中、私の店も、物件オーナーの意向で土地の売却、建て壊しが決まり、立ち退きを余儀なくされてしまった。皆さんをお招きしたいが、それらを愉しんでいただく喫茶室は9月の開店に向けて準備中である。

それにしても店を作るということはエネルギーがいる作業だ。また一から作ることを考えると途方に暮れてしまい、この機会にいっそのこと、地方に戻る考えも一瞬よぎったが、やはり東京にこそ喫茶店が必要だと思い、近所で再開することと決めた。

もともと、自身の店は地方で営みたいと思っていた。緑が多く静かな場所で、役畜でも飼いながら畑を耕して、自分の食べるものの一部くらいは自分で作りたい。欲はほどほどに、美味しい料理と豊かな大地があれば良い。そんな豊かな暮らしを自分は求めていた。

今でもそのような生き方に対する欲が無いと言ったら嘘となる。しかし、「しごと」を考えたときに、自分の使命は東京にあるのだと感じた。希望と活気にあふれた都会でありながら、その反面、せわしなさや、ネガティブな感情にもあふれた街。少し混沌とした部分を持つ東京の街にこそ、すっと逃げ込んで息を調えることができる喫茶室が必要だと思った。東京で活き活きと過ごす人たちがちょっと疲れたときの調息の時間を提案すること。それこそが今の自分の役割なのではなかろうか。そう感じた。



店の移転に伴い、休業期間を強いられたことは、もしかしたら肩の力を抜いて物事を一歩引いて考える時間を天が与えてくれたのかもしれない。改めて嗜好品の役割、店の役割についての考えを深めていきたい。きっと何を作るにしてもどんな仕事をするにしても、目の前の焙煎や、調理などの「味の表現」という手段だけでなく、その根幹にある役割、意味、目的を考えることこそ、何より大切なことだと思う。






蕪木祐介(かぶき・ゆうすけ)
岩手大学農学部を卒業後、菓子メーカーに入社。カカオ・チョコレートの技術者として商品開発に携わる。2016年、自家焙煎の珈琲とチョコレートの喫茶室「蕪木」をオープン(2019年12月移転、再オープン)。2018年には、盛岡で40年以上愛されてきた喫茶店「六分儀」(2017年11月に閉店)を、佇まいはそのままに「羅針盤」の名前で復活させた。著書に『チョコレートの手引』、『珈琲の表現』(共に雷鳥社刊)。
http://kabukiyusuke.com/





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